坂本九思い出記念館ーー夕張郡栗山町になぜできたのか?

夕張の近くの栗山町の坂本九思い出記念館を訪問した。札幌からバスで1時間少しの距離にある。継立のバス停からもずいぶん歩く。 

代表作の「上を向いて歩こう」が流れている。初めに障害者を中心としたテレビの番組のようだがなぜ坂本九がこういう番組に出ているんだろうと不思議に思った。

記念館は常正寺の境内にあり建築費は3000万円かかったとある。平屋全体が逆九の形になっている。昭和30年代はじめに北海道は夕張を中心に小児麻痺の大流行に襲われた。昭和37年12月に札幌テレビ放送はチャリティー企画を企画する。九ちゃんはノーギャラでこの番組出演した。そしてこのチャリティーショーは10年続く。昭和51年からは福祉レギュラー番組「ふれあい広場サンデー九」が始まった。 福祉施設探訪、身体障害者の自立支援、医療、老人の生き甲斐などがテーマだった。9年間462回続き昭和60年8月12日に終了した。この日は坂本九日航御巣鷹山事故で死亡した日である。九ちゃんの最後の訪問が栗山の精神薄弱者厚生施設「ノビロ青年の家」だった、平成4年にノビロ青年の家の槇文也が栗山にハロー学園を開設し、九ちゃんの記念館創設の機運が高まり九人委員会が結成され実現できたのである。この施設は社会福祉法人栗山ゆりの会が運営している。館内の壁には500万円の企業や個人、5万円、1万円の寄付協力者たちの名前が張り出されている。

 

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永六輔「…すでにいない人の歌を歌う時、それはもう歌ではなく「お経」である。楽しく歌おうが、それは供養である。、、、歌われて、偲ばれるのは幸福だ。僕は九を偲ぶが九は僕を偲ばないからである。、、」

青島幸男の思い出。

「僕は本当に唄を唄うことが好きです。好きな唄を唄って人に喜んでもらえて、しかも生活ができるなんて、こんな幸福な事はありません」

中村八「上を向いて歩こうの詞が、ウエホムフイテ アールコウオウオウオウに聞こえたからだ。、、、、永さんは絶句して、私を睨みつけたままだった。長い間、九君のせいにしていて、ゴメンネ」

横道由美子「九ちゃんの活動の大きな柱に福祉があった。特に北海道とは20年以上の関わりを持ち、毎週日曜朝のサンデー九を通じて、明るい笑顔でごく自然に福祉を語り、人が生きていく原点を訴え続けた。」

この記念館の存在はかなり前から知っていたし、私が日本航空に勤務していた30代のときの大事故で坂本九ちゃんが亡くなったこともあり、今回ようやく訪問が実現できたことを嬉しく思った。改めて九ちゃんの素晴らしい笑顔と歌に接して、この人の人柄と人々に与えた影響の大きさを思った。

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夕食は昨日のメンバー達と摂ることになった。この写真からわかるように、偶然に男組と女組に分かれた。高橋さんを中心に、事務局長の川村さん、京大の井上くん、宮城の末永さん、鹿児島の奥さん達と楽しく愉快な時を過ごした。北海道や各地との縁も広がって面白いことになりそうな予感がする。末永さんの焼き芋は素晴らしい味だった。ありがとうございました。

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「名言との対話・ジャック・オニール「俺はただのサーファー。自分自身がサーフィンを長く続けるための何かを作りたかった一人のサーファーさ」

ジャック・オニール(1923年3月27日~2017年6月2日)は、O’NEILL(オニール)の創業者。

1952年(日本では昭和27年)、世界ではじめてウェットスーツを開発し、近代のサーフィンに多大な影響を与えた

今では、サーフィン、またスノーボードなどアクションスポーツのトップブランドとして世界でもっとも古い歴史を持つO’NEILL(オニール)。ジャック・オニールが「冷たいカリフォルニアの水にも耐え、少しでも長くサーフィンがしたい」と考え、海軍の潜水服からヒントを得て開発した ウェットスーツという概念はまたたく間にカリフォルニア中で評判となった。現在では インターナショナルブランドとして全世界で販売されるようになった。

ただのサーファーが、自分のために開発したウエットスーツを、同好の士たちが支持し、大きな企業に育っていく。自分にとって切実な問題は、自分で解くしかない。そこに集中し深堀りして、地下の鉱脈に達した。気がつくと、大きな事業になっていたのだ。現場にはそういう飯の種が無数に転がっている。それをジャックは証明してくれた。