棟方志功『板極道』:谷崎潤一郎「眼病の棟方志功眼を剥きて猛然と彫(え)るよ森羅万象」、吉井勇「屏風には志功板画の諸天ゐて紙漉く家の炉火はなつかし」

 府中市美術館で購入した棟方志功の自伝『板極道』を読了。

板極道 (中公文庫)

板極道 (中公文庫)

 
  • 谷崎潤一郎「眼病の棟方志功眼を剥きて猛然と彫(え)るよ森羅万象」
  •  「帝展に入選しなければ帰りません」と心の中で叫んだ棟方は、26歳帝展に初入選。
  • からだの中に宗教の世界がひそんでいる。美と宗教、板画と宗教は同律の道にある。
  • 吉井勇「屏風には志功板画の諸天ゐて紙漉く家の炉火はなつかし」
  • 「生んでいる」という仕事を願う。板画がひとりでに板画をなしていく、板画の方からひとりでに作品になっていく。
  • 柵。願所に一ツ一ツ願かけの印札を納めていく。一柵ずつ、一生の間、生涯の道標を一ツずつ、置いていく。作品に念願をかけておいていく、柵を打っていく。この柵はどこまでも、つづいていく。際さい無限に。
  • 葛西善三の小説は小説の形をした経巻だ。
  • 仕事場は鎌倉山の「胸肩画寓」。
  • 真宗からは、自分というものは無力で小さいものだ。そういう自分から生まれたものは小さいということを教えられた。
  • 板極道「花ふかき所、行跡なし」
  • 草野心平「全生涯を枯葉ころがり廻る火だるまのように縦横無尽に仕事をして、その燃焼の果てに死んでいった」

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大学:連絡、仕込み、、、。

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「名言との対話」6月10日。吉田正歌はいつからかよみ人知らずになる。本当にいい歌は永遠の命をもつ」

吉田 正(よしだ ただし、1921年1月20日 - 1998年6月10日)は国民歌謡作曲家

1945年、シベリア抑留。従軍中に作曲した『大興安嶺突破演習の歌』に、抑留兵の一人が『昨日も今日も』と言う詩をつけ、よみ人しらずで抑留地に広まり歌われる。それが1948年に『異国の丘』になった。1960年、「誰よりも君を愛す」でレコード大賞。1962年、「いつでも夢を」でレコード大賞。1989年、日本音楽著作権協会会長。1993年、日本作曲家協会会長。日本レコード大賞には、吉田正賞が設けられている。出身地の茨城県日立市には、吉田正音楽記念館がある。

生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡リズム歌謡まで幅広く手掛けた。鶴田浩二フランク永井、松尾和子、三浦洸一、橋幸夫、吉永小百合、三田明、雪村いづみ、和田弘とマヒナスターズ、久保浩、、、。など多くの歌手を育て上げた功績は大きい。死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞を受賞している。作曲家としては古賀政男服部良一に続く3人目である。

有楽町で逢いましょう1957年フランク永井)、誰よりも君を愛す(1959年/松尾和子&和田弘とマヒナスターズ)、潮来笠(1960年/橋幸夫)、いつでも夢を(1962年/橋幸夫&吉永小百合)、美しい十代(1963年/三田明、などは、よく私も歌った。数多くの吉田正の曲を歌った橋幸夫は「唄の勉強だけではなく人間としての教訓を数えきれないほど、学ばせていただくことができました」と偲んでいる。フランク永井「先生は、歌謡曲への転向の道を私に示してくださった」。松尾和子「卵だった私を雛にかえしてくださった」。吉永小百合「間違えてばかりいて、先生を困らせてしまっとことはいつまでも私の胸に残っています」。三田明「吉田先生あっての三田明だといつも感謝しております」。このような門下生たちの言葉を眺めると、人格者だったことがわかる。

6月10日は、中村八大、猪俣公章も亡くなった日だ。偉大な作曲家たちが亡くなった特別な日である。「歌はいつかよみ人知らずになる」と吉田正は語った。時折ふいに口ずさむ歌も誰がつくったかは忘れているし知らないことが多い。戦後人々が口ずさんだ吉田の「異国の丘」の原曲もよみ人知らずだった。古代からの長い命を保っている和歌の世界でもいつかよみ人知らずになっている名歌が多い。現代の人々の心を慰める歌謡曲の世界も同じだろう。