仁木悦子ーー寝たきり、独学。童話作家から推理小説作家へ。

 仁木 悦子(にき えつこ、1928年3月7日 - 1986年11月23日)は、日本小説家東京府生まれ。本名は二日市 三重子(戸籍名は二日市 三重)。旧姓名の大井 三重子名義で童話も残している。

 4歳で胸椎カリエスを発病し、歩行不能で寝たきりの生活を送る。兄から学ぶ独学で、本名の大井三重子として1955年頃から童話を書くようになる。推理小説猫は知っていた』を書き、感心した江戸川乱歩から励まされて応募し、江戸川乱歩賞を受賞する。10数万部を売り上げた。国産ミステリーとして初のベストセラーだった。20代の若い女性、寝たきり、独学という背景から、話題になった。1958年からは松本清張「点と線」などもベストセラーとなって従来あった「探偵小説」は、「推理小説」へと変貌を遂げていく。

1958年から2年間で5回の手術を受け、車椅子での生活が可能となった。推理小説を『猫は知っていた』の主人公・仁木悦子ペンネームとして、推理小説を書いていく。1961年に女流推理小説作家の会「霧の会」を結成、翌年には歌人で翻訳家の後藤安彦(本名、二日市安)と結婚した。1981年には「赤い猫」で日本推理小説作家協会賞を受賞。

1958年1月22日の朝日新聞朝刊の広告は「おてんばで陽気な女学生の私が兄と一緒に下宿した箱崎病院で奇怪な連続殺人が起こりました。現場に必ず現れる猫の謎をめぐって私達兄妹は即製の素人探偵として大活躍を解し。この本をお読みになる皆様との犯人探し競争です! 作中の主人公及筆者として 仁木悦子」だった。

この物語は過去に11回出版された。50年以上にわたって読み継がれた傑作だ。この本を読んでみたが、わかりやすい文章で、推理小説特有のおどろおどろしたところや、暗さはない。ユーモアがあり、明るい雰囲気の中で物語は展開される。1958年は戦後がようやく終わりかけた時代であり、当時の生活様式もよくわかる。

仁木悦子は、1986年に58歳で亡くなるまで、11本の長編と100以上の短編を書いた。「日本のアガサ・クリスティ」と呼ばれた。

昨日みた企画展では、寺山修司(1935年生)との手紙のやり取りが頻繁にあり、特に親しかったようだ。石牟礼道子(1927年生)、曽野綾子(1931年生)、筒井康隆(1934年生)、星新一(1926年生)らとの交流もあったことがわかる。

(P[に]2-2)猫は知っていた 仁木兄妹の事件簿 (ポプラ文庫ピュアフル)

(P[に]2-2)猫は知っていた 仁木兄妹の事件簿 (ポプラ文庫ピュアフル)

 

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「名言との対話」7月17日。塩田剛三合気道の本質は、相手と自分の気を合わせ相手の攻撃を無力化することにある」

塩田 剛三(しおだ ごうぞう、1915年大正4年)9月9日 - 1994年平成6年)7月17日)は、武道合気道)家である。

 身長154cm、体重46kgと小柄な体格ながら「不世出の達人」と評され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた、合気道の達人である。

すでに講道館柔道の有段者であった18歳のときに、植芝盛平が営む植芝道場を見学に訪問。一瞬で飛ばされた塩田は「弟子にしてください」と即日入門した。この師弟関係は植木が亡くなるまで続いた。1961年には植木から合気道九段(最高位)の免状をもらう。1983年には、国際武道院より範士号を、 1985年には国際武道院より合気道十段を、1988年には国際武道院より合気道名人位を授与された。

「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」というモットーを植芝の教えとして度々語っていた。「呼吸力を出すためには足の親指を地面に食い込ませるように立たなくてはならない」という持論を持ちっていた。これは今ではこれはヨガやウオーキング法などでもよく言われることである。人気漫画「バキしリース」の主人公・渋川剛気のモデルだ。

塩田のビデオを何本かみてみた。4人組み、8人掛かり、木刀をもった数人との立ち合いなど、軽々と切り抜け、相手を面白いように倒していく。まさに神業だ。塩田の技を信じなかったロバート・ケネディは、195センチ100キロのボディガードを挑戦させた。塩田の腕をとったとたんに、蜘蛛のように地べたにはいつくばってしまった。ボクシングのマイクタイソンは「これは、力の技ではなく、タイミングの技だ」と見破っている。確かに、塩田は「中心力」「スピード・タイミング」と言った用語を使った平易な解説を心がけていた。

弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれた塩田剛三は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。合気道の本質は、「相手と自分の気を合わせ相手の攻撃を無力化することにある」のだ。塩田は護身術としての武道を奨励した。