書斎。ヨガ。書斎。ジム。書斎。

今日の「名言との対話」は、105歳まで活躍した画家の小倉遊亀を描いたのだが、もうひとり百寿者がいた。五十嵐丈吉。41日間、日本男性最高齢だった人物。111歳。

「五十嵐さんは明治35年1月26日に三条市西中で6人きょうだいの長男として生まれた。地元の小学校を卒業後、家業の稲作で生計をたててきた。病気がちだった妻のミテさん(40年前に68歳で死去)や、孫の面倒をみるため50代で隠居。酒やたばこはたしなまず、趣味の菊づくりに励み、左大腿(だいたい)部を骨折する91歳までは自宅庭の松の木に登り、枝にはさみを入れていたという。きょうだいには先立たれたが、子供4人、孫11人、ひ孫22人、玄孫1人に恵まれた。」「長男の平一郎さん(82)は「父は豆腐でも何でも酢をいっぱいかけて食べていた。それが長寿につながったのかもしれない」と語った。」(NPO法人 住民安全ネットワークジャパン「ほっとTOWN情報」)

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講演などの準備。

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ヨガ:1h

ジム:スイミング300m

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「名言との対話」7月23日。小倉遊亀「私は自惚れまい。思い上がるまい」

小倉 遊亀おぐら ゆき、1895年3月1日 - 2000年7月23日)は、日本画家

奈良女子高等師範学校卒。1926年に院展に入選し、1932年に女性として初めて日本美術院の同人となった。色彩に富む人物画や静物画が特徴で、上村松園とともに日本を代表する女性画家である。

 1978年、文化功労者。1980年、上村松園についで女性画家として二人目の文化勲章を受章する。1990年から1996年まで日本美術院理事長を務めた。105歳で没。

『続 画室の中から』という、日記を読んだ。1968年から1973年までの6年間の日記である。小倉遊亀の73歳から78歳までの期間だ。私でいえば、高校を出て大学に入学し、卒業し、社会人になるまでの期間である。日記では後半は病気もし、健康面で問題が出てくる様子も描かれている。しかし、小倉は、その後も1973年から27年間も絵を描き続けたのである。

日記の中では、恩師の安田靫彦以外にも、多くの画家が登場する。そして知人の死の知らせも多い。「一期一会である。その時、その時を大切にしなければと、つくづく今思っている」との述懐もある。めったに誉めない恩師から誉められた「舞妓」や、「舞う」などの美しい美人画が挿入されている。谷崎潤一郎の『細雪』の挿絵の一部もみることができる。

 ・絵画の行手は無窮だ。思わぬ方向に転開してゆくところにつきない興味があるというものだ。私のような老人も、出来るだけ受信機を敏感にしておかねばならぬ。若者のような柔軟な神経を保持することつとめなくてはならぬ。

・私は自惚れまい。思い上がるまい。年をとることが、何かがストップすることでは困る。その努力は死んでも全力をあげなければならないことだと信じて、実行させていただいてきているのだ。

 柔軟な心を保持し、自惚れて努力を怠ることなく、時間を大切に精進し、毎日とめどなく描き続ける、小倉遊亀の心根が迫ってくる日記だ。1972年、77歳時に「喜寿記念小倉遊亀展」での多くの人々との交流、1973年、78歳時には勲三等瑞宝章の連絡がある。この光栄を頂戴しなければ慢心だと思い受ける。そして宮内庁から紀宮の扇子とお守に装画を描けとのご用命に、「遊亀一世一代の栄誉である」と記している。その小倉遊亀は、83歳で文化功労者となり、85歳で文化勲章を受章する。そして95歳から101歳までの6年間を日本美術院理事長をつとめ、なんと104歳では個展をパリで開催している。

 「絵は一生の大事業である。、、時間というものをもっと大切にしなくちゃプロにはなれない」。「絵で一生やってゆこうとする者は、、、、片時も心をはずすべからずである」。「消しては描き、消しては描き、下絵の紙に穴があく。紙を改める。描く、消す。とめどがないのをかみしめて、じっと我慢する」。自惚れず、想い上がらずに105歳まで生き切り老衰で逝去するまでの長い生涯は、作品と同様に実に見事なものだと感嘆するほかはない。

続画室の中から

続画室の中から