知研東京セミナー「被災地の水産加工業 経営者たちの戦いの記録」--記録は記憶だ!。受講学生の参院選投票率は47%だった。

夜は代々木で知研東京のセミナー。ゲストスピーカーは映像制作の「SORA1」の田中敦子社長。「ホントの3・11」がテーマ。「被災地の水産加工業 経営者たちの戦いの記録」という自主制作の記録映像も交えながら、東日本大震災の復興に関する問題山積の実態をえぐるお話だった。10人ほどの参加。

・NHKも含めテレビは泣かせるもので視聴率をとることしか考えていない。

補助金は出るが、25%は企業持ち。震災前の借金も含めて二重ローン。大企業優先で補助金がおりる。中小企業にはなかなか回ってこない。グループ補助金は発表から申請まで2週間のケースも。ネット申請になったのでパソコンが使えない企業は知らない、文章の中身もよくわからない。

・テレビはダメだなあ。漁港の活況を映すが、冷凍、加工、など流通が整わなければダメ。工場ができても周辺のインフラがなければ事業はできない。機械は特注なので値段が高い。

・記録映像「2016、あの日から5年」を観る。A社「あわび、ヒラメは扱えない。カキのみ。注文がない。厳しい。あと1年で返済が始まる」。B社「売り上げは9割に回復。原料は7割なので浜根の価格が高騰。水産会社はつぶれていく。C社「経営システム導入で失敗」。D社「売り上げは7割まで回復。新商品に挑戦しないと生き残れない」。E社「年1000万の返済が始まる」。

・負債が大きくのしかかっている。ヒトが集まらない。外国人実習生が頼り。工場自体は120%の能力がだ、有効求人倍率6.6倍で人がいない。外国に出ていく企業もあるがそれは優良企業だけ。魚がとれなくいなった。温暖化の影響。人口減少、食生活の変化、そして温暖化。

・ヒット商品はメディアがつくる。健康、長寿。テレビは他局のまねばかり。何も伝えない。視聴率中心。記録が重要だ。

南海トラフ地震にヒントがある。事業継続(BCP)。保険。業務委託。リスク分散。

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まさに、記録は記憶だ。いくつか、PRのアイデアがでた。

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午後:地研。

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昼:橘川さんと彼の授業を聴きに来たメンバーと歓談。雑誌「Spectator」の赤田さん、(株)未知の駅の諫山さん(久留米。ヒッチハイカー。編集者)、社会福祉法人北海点字図書館の後藤さん(障碍者向けのメディアを準備中。後藤健一の息子)。

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午前:授業。受講学生の参院選投票率は47%だった。

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「名言との対話」7月26日。竹島紀元竹島学校」

竹島 紀元(たけしま としもと、1926年2月2015年7月26日)は日本編集者映画監督

雑誌『鉄道ジャーナル』、『旅と鉄道』の元編集長および両雑誌を発行する鉄道ジャーナル社の創業者である寝台特急をさす「ブルートレイン」の名付けの親でもある。

  戦前は朝鮮半島で過ごす。戦後旧制五高をから九州大学工学部に入学する。根っからのレールファンで、特に蒸気機関車に対する思い入れが強く、国鉄の技術関係の仕事に就きたい夢を持っていたが、戦後の混乱が影響し、断念。大学を中退し上京、交通協力会で『交通技術』や『国鉄線』の編集に携わった。1951年創刊の『鉄道ピクトリアル』誌(電気車研究会刊)、1961年創刊の『鉄道ファン』誌(交友社刊)といった鉄道趣味誌の編集に携わる。

1965年3月、竹島氏は鉄道映画専門プロダクションとして、株式会社鉄道記録映画社を創立。新橋にオフィスを構える。その後、「鉄道趣味誌に社会的な視点が必要」という趣旨に賛同した株式会社東亜企画が版元になり、1967年4月、41歳で「第三の鉄道趣味誌」と謳い、年4回発行の季刊誌『鉄道ジャーナル』を創刊した。以後月刊化にも成功し、1970年10月14日の鉄道記念日に社名を「株式会社鉄道ジャーナル社」に改称している。2006年末の勇退まで実に40年にわたって編集長として采配をふるった。

人気を博した看板企画「列車追跡」シリーズに代表されるように、人と鉄道の関わりを重視した姿勢と情感溢れる記述で多くの読者を魅了した。「雪の行路」に代表されるドキュメンタリー映画の製作にも果敢に取り組み、歴史的財産ともいえる多くの作品を完成させている。また1971年には「鉄道を駆使して旅を点から線に広げる」をコンセプトとした季刊誌『旅と鉄道』を発刊、車輌趣味に傾倒しがちだった鉄道趣味誌に新風を吹き込んだ。 『竹島紀元作品集 鉄路に魅せられて』という自伝的作品では、仕事人生を振り返り、「私はだれよりも蒸気機関車を愛しようとしたつもりである」と、最後のページに記している。

私のいた航空業界でも、『航空ジャーナル』、『航空ファン』という名前の雑誌がある。鉄道の雑誌を参考にしたのだろう。竹島は、長い職業生活を通じて、自身の属す業界だけでなく、他の業界にも大きな影響お与えた仕事をしたことがわかる。

竹島については「活躍している鉄道カメラマンのほとんどの方が、何らかのかたちで同誌(鉄道ジャーナル)の、いや竹島さんの薫陶を受けてきているはずです」というような声が多くある。竹島は「竹島学校」の校長だったのだ。「〇〇学校」と称される人はどのような組織でも偉大な足跡を残した人である。彼らの特徴は、「人」を育てたところにある。彼の影響を受けて、優れた業績を積み上げていった人々は、懐かしそうに、その時代を語るのが常である。功なり名を遂げた、というのはこの竹島のような人をいうのだろう。

 

竹島紀元作品集 鉄路に魅せられて―鉄道誌編集長 汽車に憑かれた青春の軌跡

竹島紀元作品集 鉄路に魅せられて―鉄道誌編集長 汽車に憑かれた青春の軌跡