日経新聞に『平成時代の366名言集』の広告。

日経新聞に『平成時代の366名言集』の広告。

f:id:k-hisatune:20190727201122j:image

 『石門心学』と『前立腺がん』は、知研の岡山と東京の仲間の本。

ーーーーーーーーーーーーー

ジム:トレーナーのアドバイスを受ける。毎回、テーマを決めて、違う部位を鍛えること、負荷を多くすること。

 -------------

「名言との対話」7月27日。伊良部秀輝「あんたらにミケランジェロや作家の心境が分かるか」

伊良部 秀輝(いらぶ ひでき、1969年5月5日 - 2011年7月27日)は、兵庫県尼崎市出身のプロ野球選手投手)。

伊良部は子どもの頃、アメリア人の父と生き別れている。1987年のドラフト会議ロッテオリオンズが1位指名1993年5月3日の西武戦で清原との対戦時に158km/hを記録した速球投手で、スラッガー清原和博との対決は「平成の名勝負」と呼ばれた。

日米を巻き込んだ三角トレードで伊良部がメジャー移籍をしたことがきっかけで制度化されたのがポスティングシステム(入札制度)だ。その制度を行使した日本人第1号だ。その後、イチローダルビッシュ田中将大らもその延長線上にメジャーに行く。

日本のノーラン・ライアンといわれた。ライアンは通算奪三振5714という大リーグ記録を持つ伝説の速球投手。そのライアンになぞらえられた伊良部は、ロッテ、ヤンキースエクスポズ、レンジャーズ、阪神タイガースと渡り歩く。日本のプロ野球11年で72勝69敗。アメリメジャーリーグで6年34勝25敗。計106勝94敗。伊良部は日本を代表する投手だった。イチローが「あんなすごいボールばかり打っていたら体がおかしくなる」といい、伊良部は「あいつはどうしようもない。こうやって打ち取ろうという組み立てで最後に行くまでに、打たれる。悔しい」などと互いを評価していた。天才は天才を知る。

メジャーでもピッチャー・オブ・ザ・マンスに2回選ばれている。行きたかったヤンキースへの夢が破れそうになったとき「ピンストライプのユニフォームの重さというのは野球を経験した者にしか分からない」と残念がった。そして「アメリカの野球は大雑把なんて、誰が言い始めたんでしょうかね。実に細かいですよ。」とも語っている。

 「力を入れるのは最後に、ボールを放す時だけ。球の速さよりも、緩急、そして球の出所が見えないようにすることの方が大切」、という伊良部は鋭い観察眼で、ヤンキースで実績のある投手と接し、伊良部は投球術の大家になっていく。

「人生のチャプター・ツー(第二章)がある人は羨ましいですよ」という伊良部はミッドライフクライシスに陥っていた、と田崎健太『球童 伊良部秀輝伝』にある。ミッドライフクライシスとは、中年となり精神的、肉体的に衰えを感じた人間が精神の安定を崩してしまうことをいう。中年の危機は誰にも訪れるのだが、伊良部はその危機を乗り越えられず、第二章を拓くことなく、ロサンゼルスで自死する。40歳だった。

私にはふてぶてしい態度という印象のある伊良部はマスコミ対応はうまくなく、常にトラブルを起こしていたというイメージがある。「ボールはコントロールできるけど、メディアはコントロールできん」が伊良部の結論だった。マスコミに対し、「アンタら凡人にミケランジェロの気持ちが解るか? オレはミケランジェロなんだよ」という意味の、冒頭の言葉を吐いた。俺はミケランジェロだ、天才だといえる人の人生航路は厳しいものになる。

球童 伊良部秀輝伝

球童 伊良部秀輝伝