大西良慶「ゆっくりしいや」

大西良慶「ゆっくりしいや」

大西 良慶(おおにし りょうけい、1875年明治8年)12月21日 - 1983年昭和58年)2月15日)は、北法相宗京都清水寺貫主を務めた。

15歳で得度し、奈良法隆寺などいくつもの寺で修行を積んだ後、39歳で京都清水寺の管長となった。1965年清水寺を本山とする北法相宗を設立、初代の管長に就任する。法相宗以外の諸宗にも造詣が深く、日本宗教者平和協議会会長など仏教界の要職を歴任した。入滅まで現役の貫主であった。

1976年鹿児島県に生まれて話題となった日本初の五つ子の名付け親である。1983年、107歳で天寿を全うした。当時の男性長寿日本一でもあった。

『ゆっくりしいや』(PHP)では、最後に、清水寺貫主森清範は「書画は人なり」と「春風を以て接し、秋霜を以て自ら粛む」という言葉で語っている。北法相清水寺宗務長の松本は、「ゆっくりしいや」との言葉は味わいのある人生訓として深い真理を秘める、と述べている。そしてインタビュアーの野々村は、「仏様である」との感想を語る。接する人たちに大きな影響を与える人である。それが長い年月にわたって続いたから、影響を受けた人は多く、またその影響は次の世代にも及ぶだろう。こういう人を「偉い人」と呼ぶのだ。

この本では、「ゆっくりしいや」以外にも、「人間、あまり偉くならんでもええやないか」「目で笑うのは上等、鼻で笑うのは下等、口で笑うのはあり合わせの笑い方、本当におかしかったら抱腹絶倒、ハラをかかえて笑う」などが印象に残った。

また、「平凡から非凡になるのは、 努力さえすればある程度の所まで行けるが、 それから再び平凡に戻るのが、難しい」という名言もある。自身は非凡になってそのまま精進を重ね続くのが習性となっており、、「ゆっくりしいや」と人に語るが、自身はゆっくりできない性分になっているのだろう。

ゆっくりしいや

ゆっくりしいや

 

 ーーーーーーーーー

ジム:今日はスイミング。700m泳いだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月28日。佐貫亦男「本を読んで始めるのは最初のときだけである。そのあとは、自分の経験を積んで、自分なりの設計法を確立しないとプロにはなれない」

佐貫亦男(さぬきまたお、1908年明治41年)1月1日-1997年平成9年)6月28日 )は日本の航空技術者、航空宇宙評論家、作家エッセイスト

東大工学部航空学科卒業。日本楽器製造に入りプロペラを設計。気象庁測器課長として風速計の開発に携わる。東大工学部航空学科教授、日本大学理工学部教授を経て、航空評論家として活躍する。1969年の『とぶーー引力とのたたかい』で第17回日本エッセイストクラブ賞を受賞。

気象庁時代は、藤原寛人、後の新田次郎の上司だった。「課長の佐貫さんには、いちいちことわって出て行った。隠すことはよくないと思ったから、なんでも話した。、、、私の小説が載った雑誌は必ず何冊か買って課員に回覧することにした。課員に対して私の夜の仕事を認めて貰うためだった」と、新田次郎は小説家との二足のわらじ時代を語っている。

佐貫亦男は飛行機の大事故があるとマスコミに引っ張り出され解説をしていたから、わたしにも馴染みがある。航空機に関わる随筆集「ヒコーキの心」シリーズ、その続編「飛べヒコーキ」シリーズは、豊富な知識と独特の世界観、航空機への愛情などが豊かに表現され評価が高い。

佐貫亦男のひとりごと』を読んだ。エッセイだから読みやすいと考えて選んだのだが、なかなかどうして技術の話が多く、理解は浅くなる。いくつか、至言を発見した。

「質問を軽視してはならぬ。よくわかっている人は、必ずわかるように説明するとの鉄則を守って、解明に努力しなければならぬ」。この心掛けが、名解説者をつくったのだろう。

「本を読んで始めるのは最初のときだけである。そのあとは、自分の経験を積んで、自分なりの設計法を確立しないとプロにはなれない」。たしかに本を読んだだけで物事がなるわけではない、技術の勘どころは自分で現場で身につけるほかはない。このことは多くの分野に共通する。ゼロ戦設計者の堀越二郎ら一流の航空機設計者は、後にそれぞれ学位を得ている。しかし航空工学の学者で一流設計者になった人は皆無だ。現在の経営者と経営学教授との関係にも通じる。

佐貫亦男実学の人である。豊饒な命が宿る現場で日々学んだ佐貫亦男は、愛情豊かな一流の知的実務家であり、航空のプロになった。だから、教育でも、評論でも、エッセイでも、こなすことができ、ファンが多かったのだ。