「大野一男 稽古の言葉」。享年103。

大野一雄。「稽古の言葉」を読了。103で亡くなったダンサー。

 大野 一雄(おおの かずお、1906年明治39年)10月27日 - 2010年(平成22年)6月1日[1])北海道函館市出身の舞踏家。代表作として「ラ・アルヘンチーナ頌」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」などがある。

大野一雄―稽古の言葉

大野一雄―稽古の言葉

 

 
1977年から1996年にかけて、横浜保土ヶ谷の稽古場で、研究生に語った未公開テープをまとめた本だ。1906年生まれ。103歳で没。

以下、大野語録から。
・人間が成長するのはね、動いている時じ、成長するのでは無くして、ストップして休憩している時jに夢を見た。」そういうときに人間は成長するんではないか。
・いくらテクニックでやったって、自分の内部にないものはいくらやったって、響いtれ来ることはないですよ。
・関節が外れるくらいやってみたら「どうか。そいう踊りをやらないと可能性がないんですよ。
・でたらめの限りを尽くしてやりなさい。、、、そういうのが稽古の始まりですよ。
・いつの間にか手の動きが一塩になる。いつの間にか自分の手と宇宙の手が一緒になるような感じにならないとだめ。
・私は狂人でなく狂気の世界に入りたいと思います。
・職人というのは、お金儲けよりも何よりもいいものを作りたい、。ものの役に立たなくても良いからいいものを作りたい。始まったらやめることができないくらい、こうなってしまうわけです。
・体験をしたっていうことはね、やっぱり忘れてもさ、ちゃんと心に魂に未ざまれている。それが稽古したということですよ。
・一生懸命やって、職人は鍛えてさ、命をい鍛えて、命そのものが、鍛えるでしょう。
・毎日体験しながら、少しずつ進んでいくような感じが実感として私のなかにある。
・デタラメの限りを尽くしてやったほうがはるかにいいから。私はそういう踊りをみなさんに稽古しtれもらいたい。
・だんだん成長する。成長するっていうことは」、螺旋状にずうっと、だんだん天に近づいていく。
・自分がやらなければ、自分の命が納得しないから、命が納得するところまでやっていくというのが職人ですよ。職人芸の定義のなかに、何か知らないけど人間の命に関わる問題が絡んでいるのが職人ですよ。

大野一雄は、職人ダンサーであろうと、103歳の人生を全うした。

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「名言との対話」8月12日。中上健次「知りたい、何もかも。知りはじめた以上、知り尽くしたい。
中上 健次(なかがみ けんじ1946年8月2日 - 1992年8月12日)は、日本の小説家。

1946年生まれ。17歳、大江健三郎の講演を聴いて文学に興味を持つ。19歳、上京し予備校入学。20歳、「文芸首都」同人と交遊。24歳、日野自動車の臨時工。全日空の子会社に勤める。28歳、「十九歳の地図」を刊行。30歳、「岬」が芥川賞。31歳、「枯木灘」で毎日出版文化賞。32歳、芸術選奨文部大臣賞新人賞。40歳、「火まつり」が毎日新聞映画コンクール脚本賞。44歳、「奇蹟」が平林たい子賞を辞退。46歳、没。

「十八歳」と「十九歳の地図」から。

・知りたい、何もかも。知りはじめた以上、知り尽くしたい。

・俺は知っているんだ。なにをやったって、駄目さ。

・ぜつぼうだ、希望など。この生活の中にはひとかけらもない、

上京して、働きつつ浪人生活をしながら、「来る日も来る日も。ジャズばかりを聴いていた時期があった。それが5年菅ほど続いた」。結局大学には行かずに、「文芸首都」に入会して、作家への道を模索する。30歳あたりから芽がでてきて、その後の10数年を疾走し、力走し、あまりにも若い46歳で生涯を閉じる。

複雑な出自と家族関係の織りなす圧倒的な重量感を持って作品を描き、江藤淳からは「土と血を呼吸する氏自身こころの古道によって人物たちをとらえ」得たと評価される特異な作家として日本文学史に名を残している。

中上健次においても、その青春には希望と絶望の大きな落差に苦しんでいることが、自伝的作品に見える。このあたりは、当時も、わたしの時代も、そして今の時代も変らない。中上健次はこの落差をどのように埋めていったのかを知りたくなった。「知りたい、何もかも。知りはじめた以上、知り尽くしたい」という情熱が、原動力になったと仮定しておこう。まずは「枯木灘」を読まねばならない。

 

作家の自伝 (80) (シリーズ・人間図書館)

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