芹沢光治良「僕も四十九年の老年を迎えた。もう金のことや生活のことを考えないで、ほんとうのよい仕事をしたい」
芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。
芹沢光治良『芹沢光治良 戦中戦後日記』(勉誠出版)を読了。芹沢は、1896年静岡県沼津市生まれ。一高、東大経済学部を卒業後、農商務省に入省。官を辞してフランスへ留学。帰国後書いた「ブルジョア」が雑誌「改造」の懸賞小説に当選して作家活動に入る。日本ペンクラブ会長。ノーベル賞推薦委員。1993年逝去、享年96。アラハンの人である。
1941年1月22日の「日誌はほんの物覚えに書いておけばよかろう。毎日つけてみるに限る。毎日つけてみよう」から、この日記は始まる。
志に関する言葉。
・美しいものだけをこの世で残して生きていきたい。
・人間五十近くになって、正しきことのみなし、正しきを言おうと切に思う。
・私も人類のことを思い、よい作品をのこすことのみ考えたい。
・文筆業もあがったりで、食べない日が来ることを覚悟を要する。
・こんなことで一生がおわるのかと心細い。
・十年つけた日誌を焼いたことが最も残念だ。
・僕も四十九年の老年を迎えた。もう金のことや生活のことを考えないで、ほんとうのよい仕事をしたい。
・世界が終わるともよい。作品を書いていよう。
時局と戦争についての言葉。
・新聞はもう国民の声を伝えずに、政府の声のみ伝える。新聞は対外宣伝機関に化した。政府の御用をつとめることに汲汲としている。
・上に立つ者に日本精神がなし。
・戦争でなくて、お互に話し合って解決するまでに、人間は偉くなれないものか。
・不思議な時代だ。人々は軍人を神の如くあがめて頭を垂れている。軍人の言うことを至上の命令と拝聴している。軍人は戦争をする人、いくさびとではなかったか。
・思えば国民は今日まで何も真実を告げられずに、戦争の苦悩をのみ負担したと言われないだろうか・それも、おだてられて、だまされて。
・東久邇宮殿下の内閣成る。近衛公が国務大臣として参加したのは意外である。大東亜戦争の責任者として切腹すべきであるのに。
8月15日の終戦の日には、「晴れて穏やかな無風の日なり。されど悲し。十二時陛下お自ら詔書をラジオを通じて国民にたまう。広間で聴く。一同泣けり。力なし」とある。
妻については「家にありて、仕事す。妻の愚かなるために苦しむこと甚だし」などの愚痴が何度かでてくる。
このような状況の中で、芹沢の精神を救ったのは「読書」であった。芸術家たちの生涯に関心が湧いている。ロマン・ロラン『ミケランジェロ』『ゲーテとベートーベン』。『セザンヌ』。バルザック『追放者』。『ファーブルの生涯』。『ゲーテ全集』。パスカル。、、、。
四十九歳で老年という芹沢には、人生50年説が重くのしかかっているようにみえる。しかし、その芹沢は96歳の長寿を賜ったから、老年を意識してから半世紀に迫る時間が与えらえた。人の寿命は、本人が考えているより早いか、遅いか、どちらかだから、正しいことを行い、いい作品を残そうとすべきと思う。
2011年に沼津の芹沢光治郎記念館を訪問したときのメモは以下。「芹沢は1897年生まれ。家が貧しかった岐路に立った時に援助者が現れている。一高・東大経済を経て、農商務省に入省。29歳で愛知電鉄(後の名鉄)社長の娘・金江と結婚。その年に渡仏。肺結核で療養し帰国。36歳から作家に専心。46歳「巴里に死す」。69歳日本ペンクラブ会長。73歳ノーベル文学賞推薦委員(川端康成の綬章に尽力)、78歳金芝河問題で9年間の日本ペンクラブ会長を辞任。96歳老衰死。この芹沢館は、駿河銀行が井上靖と芹沢の両方を支援していたのだが、芹沢館は沼津市が引き継いで運営している」。
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第101回高校野球決勝は、履正社が好投手奥川を擁する石川県の星稜を破って優勝。横綱同士ががっぷり四つに組んだ気持ちの良い勝負だった。
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「名言との対話」8月22日。服部善郎「服部名人」
服部善郎(1929年2月5日ー2011年8月22日)は、神奈川県横浜生まれ。9歳の時に横浜港で投げ釣りを体験して以来、釣り一筋の人生を送る。早稲田大学法学部卒業後、読売映画社に入社し、昭和37~39年にディレクター兼主演で日本テレビ「日本の釣り」を担当した。流暢な語り口と卓越した釣りの腕前を買われ、同局の長寿番組「11PM」のイレブンフィッシングに服部名人の名で登場し、釣りブームの火つけ役となる。NPO法人ジャパンゲームフィッシュ協会その他釣り関係の各種団体に名を連ね、釣り界の発展に大きく寄与した。
著書も多い。『海釣り大事典―海の100魚種を釣る完全マニュアル』『服部博物館』『きみはつり名人 』『海の夜釣り 』『日本の釣り百科 』『釣れて釣れてこまる本―名人が教えるとっておきのコツ』『服部名人の海釣り指南』『かながわ海のフィッシング』『魚がとびつく釣り具選び (サラ・ブックス 』『日本の釣り百科 』、、。
服部名人が使った釣具コレクションを展示する「服部名人の釣り部屋」が、東京都中央区八丁堀の公益財団法人日本釣振興会2階「文化資料室」にできているので訪問したい。
名人とは一芸をきわめた人を指す。自分で自分を名人といい売り出す人はなかなかいないが、啓蒙のための著書やコレクションの展示館を残しているのは、やはり志が高い人だ。1927年生まれで同時代の釣り師・ 小西 和人は、「週刊釣りサンデー」という釣り人向けのメディアをつくり、亜細亜釣魚連盟をつくるなど国際交流も手がけ、優れた著書を残した。ある分野が世の中に認められるには、啓蒙精神が旺盛で記録意識の高い人物の登場が必要なのだ。