新潟県。宮柊二記念館。田中角栄記念館。会津八一記念館。

新潟県

       黄金の 海漕ぐ車 秋越後

堀の内の宮柊二記念館。昭和を代表する歌人。生涯で1万首の歌を詠んだ。白秋門下。富士製鋼勤務。41歳、コスモス主宰。43歳、朝日歌壇選者。48歳、富士製鋼退社。

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空ひびき土ひびきして雪吹雪くさびしき国ぞわが生まれしぐに

 

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西山の田中角栄記念館。2018年、生誕百年。

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新潟市会津八一記念館。縁の深かった新潟日報の高層ビルにある。

万葉風のひらがな短歌。1950 年生まれのリービ英雄のビデオ解説を聞く。

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「名言との対話」9月1日。エドウィンライシャワー「私が何より喜ぶのは、日米が強力なイコール・パートナーシップを作ったことである」

エドウィン・オールドファザー・ライシャワー英語: Edwin Oldfather Reischauer, 1910年10月15日 - 1990年9月1日)は、アメリカ合衆国東洋史研究者、。

 77歳のときに書いた 『ライシャワー自伝』を読んだ。日本とアメリカを等距離で見つめ続けた希有の知識人が日本への深い愛情と理解はいずこより来たかを外交秘話を交えて率直に語る本である。非常に興味深かった。

長老派宣教師の息子・エドウィン・ライシャワーは日本に生まれそして日本で育った人である。もともとは古代史の研究者であるが、5年半ものあいだ駐日大使を務め、日米友好に功績があった人だ。再婚した相手は40歳の松方ハルで、明治の元勲・松方正義の娘である。

1927年、アメリカのオーバリン大学、そしてハーヴァード大学で東アジア研究に入り、日本を研究する。2年間パリで学び、東アジアをアメリカとヨーロッパという二つの視点でみるようになった。再び訪れた日本では東京と京都で「円仁」を博士論文のテーマと決め、長大な日記を翻訳していく。ハーヴァードに戻ると、日米開戦によって日本語が脚光を浴びた。日本軍の暗号を解く解読者養成の学校の面倒をみたライシャワーは、海軍の暗号を解読し、ミッドウエー海戦の勝利に結びつける。日本のベルリン駐在大使の公電も貴重な情報だった。ドイツ用に開発された原爆は日本に落とされた。それを過ちと、しかたないという二つの立場で揺れた。しかし二発目は無益だと言っている。戦後、天皇制の廃止や天皇個人の処罰はさけよと進言。沖縄については早期返還を基本に小さい地域以外は非戦略的委任統治とすることを提案。その後、ハーヴァードで教授になる。オーベリン大学の学長候補にも擬せられたが断っている。

アメリカ大使は半分は素人であり、半分は去勢されているとする。ライシャワー大使は在日米軍司令官をしのぐ代表者となっていった。中日大使の日常は以下のとおりだ。英字新聞、そして朝日、毎日、読売の三紙を読み、30分間の日本語レッスン、夜に届いたワシントンからのメッセージを読む。館員を集めての短いミーティング。午前中は日本の指導者を訪問。昼食は会合、会食。午後は外での行事。夕方はレセプション、舞踏会、晩餐会。常に短いスピーチをしたのであらかじめ考えるクセがついた。大使の仕事は目立つことが大事だ。それを成功させた。沖縄問題と日韓国交正常化が大使時代の重要懸案だった。

日本大使在任中多くの政治家と付き合っている。佐藤栄作田中角栄三木武夫、福田、岸信介大野伴睦河野一郎宮澤喜一、、。ライシャワーの見るところ同い年の大平正芳が政治家として最も優秀であり、勇気と腕があり、日本が果たすべき国際的役割について明確なヴィジョンを持っていたと評している。1964年の暗殺未遂事件。1975年脳卒中、1980年と1983年の脳内出血という悲運に会う。1980年、ライシャワーは70歳になってハーバード大学を退職したとき、ハーバードは終身オフィスの部屋と秘書をプレゼントしてくれた。

駐日大使という公職に就いたことで、包括的な日本通史とバランスのとれた世界史を完成することができなかったことを心残りと書いている。しかし、ライシャワーにとっての2つの祖国が文化と人種を越えた世界モデルの絆を築いたことに関与したことをもって満足したとこの自伝は結んでいる。当時の日本人の誰もが尊敬したアメリカ駐日大使・ライシャワーの存在は際立っている。 

ライシャワー自伝

ライシャワー自伝