大学「ひと仕事」。総研「中期」。知研「幹事会」。サンフランシスコ講和会議「真実」。柴生田・八木「30年ぶり」。

大学

・11時:いくつか仕事を済ます。

・13時:多摩大総研の中期計画ミーティング。松本先生、長島先生。キーワードは「未来」。

地研

・16時半:柴生田俊一さんの近刊予定の『子ども地球歳時記』の検討。10月発刊。

・17時半:知研幹事会。10月小酒井。11月八木。12月柴生田。

・18時半:ちけんエディトリアルミーティングで中崎さんのセミナー「コロンボ会議」。第二次世界大戦の敗戦で、日本は戦勝4カ国(米英ロ中)に分割される危機があった。それを救ったのがスリランカ(セイロン)だったという話。ジャワルダ大蔵大臣(後の大統領)は、日本の独立を支持し、賠償権を放棄する演説を行い、流れを変えた。この発言に吉田茂全権は感涙した。スリランカポルトガル、オランダ、イギリスの白人国から1505年以降支配された歴史を持つ。日露戦争に勝利した日本への尊敬の念がある、アジアの人々を代弁して、ソ連案に反対した。この話はスリランカの国語教科書にも載っている。昭和天皇大喪の礼時にじゃわるなだは参列している。遺言で「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」と角膜を寄贈し、遺言通りに実行された。

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中崎さんの以上の話に触発されて、様々の意見交換。私の中・韓・北・台の歴史教科書の図解化による考えも話題になった。

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終了後、20時半から八木さんと柴生田さんと3人での飲み会。この二人は30年ぶりの再会。

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「名言との対話」9月9日。エドワード・テラー「今日の科学は明日の技術となる」

エドワード・テラーEdward Teller1908年1月15日 - 2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者である。

アメリカの「水爆の父」として知られる。カールスルーエ工科大学を卒業の後、1930年ライプチヒ大学で学位を得て、1931-1933年までゲッチンゲン大学の研究員を務めた。コペンハーゲンとロンドンで教職に就いた後、1935年渡米し、1935-1941年までワシントン大学教授を務め、1941年米国に帰化した。

米英加がヒトラーの原爆開発に対抗し、原爆製造のために科学者、技術者を総動員したマンハッタン計画に参加した。この計画は成功し広島、長崎に原子爆弾を投下した。ロス・アラモス研究所所長を務めた後、シカゴ大学教授を経て、1953-1975年にカリフォルニア大学教授を務める。原子物理学、分子物理学分野で多くの業績があり、ヤーン・テラー効果やBETの吸着等温式が代表業績である。

水素爆弾(水爆)は、重水素の熱核反応を利用した核兵器だ。水爆は実際に使われたことはないが、1954年のビキニ環礁での実験で、日本の第五福竜丸被爆した。威力は絶大で、広島・長崎級原爆の数十倍 -数百倍の爆発エネルギーを持たせた核兵器が開発できるとされている。テラーは核分裂だけの核爆弾から核融合を用いた超強力爆弾(水素爆弾)へ核兵器を発展を主張し、研究を主導した。

 原爆の父・オッペンハイマーは原爆の使用に関して「科学者は罪を知った」との言葉を残して核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。また、ソ連の水爆の父・サハロフは途中から反核に転じて、ノーベル平和賞をもらっている。水爆計画に携わったテラーは、水爆を「マイ・ベイビーと呼び、水爆を開発したことに関しては、生涯肯定的な言動を行い、悔いることはなく、好対照の人生を送っている。

 科学(サイエンス)は、自然現象などを体系化した理論を追求する技術(テクノロジー)は、科学の理論を人間の活動に役立つように実用化することが目的だ。科学の知識は中立だが、技術はそうではない。テラーのいう「今日の科学は明日の技術になる」のは自明である。人間が技術の目的を決めるから、正反対の立場が出てくる。核開発もそうだが、今後の人工知能などの技術開発には、人類は技術開発の方向性を制御していく叡智を働かせなけばならない。