勝海舟記念館ーー西郷への勝利「江戸城無血開城」と福沢への反論「行蔵は我に存す」。

勝海舟記念館。

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年1月19日)。

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別荘の洗足軒(建坪33坪)は津田梅子の父・津田仙のすすめで購入。義理の弟でもあり、師事した12歳年長の佐久間象山が書いた「海舟書屋」が気に入って書斎に掲げた、それが海舟という号を使うきっかけだ。象山については「物知りだった」、「学問も博し、見識も多少持っていた」と評している。海舟は身長156-157センチと小柄だった。

海舟関係の資料を集めた「清明館」は江戸城開城60周年に着工、昭和8-10年の数年の間に、404回のセミナーで4万人近いを集めた。仏教講義198回、儒教67回、神道国史20回、政道・法制63回、国民教化56回(25060人)。この清明館が2019年9月7日に開館した勝海舟記念館となった。正面のネオゴシックスタイル、内装はアール・デコ調の建物である。

1937年には「南洲海舟両雄詠嘆之詩碑」除幕式に合わせて開催された講演は徳富蘇峰1863年生)が講師だった。その写真が図録にある。蘇峰は「如何にも食へない親爺」であり、目を合わせるだけで腹の底を見透かされているような心地になり、精神的に非常に疲労を覚えるほどエネルギーの塊のような人だった、と述懐している。

1868年、新政府軍参謀の西郷隆盛1827年)と会談し、江戸城無血開城を成功させる。このとき、勝は46歳、西郷は43歳だ。この時の様子や評価は多いが、今回江藤淳『海舟余波』tという著書を読んだ。「彼の前には、近代国家の可能性がひろがり、彼の後ろには幕藩的過去がひろがっている。明日に迫った江戸城明渡しは、二つの歴史の関節をはめるような仕事である」と書いている。

勝は薩摩側に立っていた英国公使・パークスと接触し、和平と慶喜助命による安定した市場の確保という点で利益が一致することを確認し、武力解決には同意しがたいと薩摩に申し入れさせている。また、江戸の治安を任せないと大変なことになるぞとの脅迫も使った。外を押さえ、内の状況を逆手にとって、西郷を包み込んで、身動きをとれないようにしたという放れざわのような政治手腕を発揮する。実は会談の前に勝敗は決まっていた。

明治新政府では、勝は外務大丞兵部大丞、参議海軍卿元老院議官枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。この出処進退について、福沢諭吉(1835年生)から「瘠我慢の説」で非難された勝は、1892年に返答を送る。「行蔵を我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と返事をする。批評家に、局に当たらねばならぬ者の「行蔵」の重苦しさがわかってたまるか。自分は日夜自分を奮い立たせて継ぎはぎ細工を続けてきた。その一刻一刻がおれの「行蔵」だ。それが我慢というものだ。そういう心境だったのだ。また福沢は勝は「得々名利の地位に居る」と非難している。叩き壊すことは簡単だが、まとめるには苦心がいる。権力の中枢に謀叛を起こしうる力が存在し、それが統制されていれば、一大勢力になる。幕臣の代表として高位高官になることは必要だった。最大の潜在的野党として異常な沈黙を守ったのである。我慢と苦学の後半生であったのだ。これが江藤淳の見方だ。

勝は旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。相談ごとで訪れる人は絶えることがなかったという。旧幕臣の世話を焼いていたのである。

慶喜とは微妙な関係で、維新後は長く断絶していた。慶喜に末子を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜とも和解している。

勝海舟の生き方は、一貫している。この『海舟余波』の読後には、変節漢呼ばわりする福沢の説よりも、海舟の生き方に軍配をあげたい気がする。 

海舟余波 わが読史余滴 (講談社文芸文庫)

海舟余波 わが読史余滴 (講談社文芸文庫)

 

 

「名言との対話」9月21日。小此木啓吾モラトリアム人間

小此木 啓吾(おこのぎ けいご、1930年1月31日 - 2003年9月21日)は、日本医学者精神科医精神分析家

 1954年慶應義塾大学医学部を卒業。1976年同大学助教授,1990年教授に就任。日本人で初めてウィーン精神分析研究所に留学し、日本の精神分析学の草分けといわれる古沢平作に師事。精神分析医として治療にあたる一方で、ジグムント・フロイトから現代までの精神分析学を幅広く研究した。同時に,精神分析の日本への定着にも尽力、新聞、雑誌、書籍などで精神分析学を土台とした現代社会論を展開した。1977年には,豊かな社会に育ち、社会人としての当事者意識がなく、大人になりたがらない当時の若者を「モラトリアム人間」と規定した論文を雑誌『中央公論』に発表。翌 1978年に出版した『モラトリアム人間の時代』はベストセラーとなった。1986年に日本精神分析学会会長に就任。

数百人におよぶ弟子の一人である「みゆきクリニック」(小此木啓吾が初代院長)の医師が人柄を以下の様に語っている。

フロイトに学んだ恩師・古澤平作「阿闍生(アジャセイ)コンプレックスを発展させた出産に対する母親の恐怖への怨みが残るが最後は許し合うというものだ。小此木の著作は数百冊あり、「モラトリアム人間の時代」以外にも、「エロスイ的人間」「自己愛人間」は一般の話題になった。全国各地での講演、数百冊におよぶ膨大な著作、医師としての治療行為、臨床心理士や医師の教育など、超人的な体力を持つ活動家だった。本人は「自分の一番の業績は弟子をたくさん育てたことだ」と語っていたという。

フロイト喉頭がんの手術を10数回しても、もうろうとなるより苦痛の中で思考するとして痛みの緩和剤を使わなかった。小此木も下咽頭に腫瘍ができた。その闘病中にも3冊の本を出版している。愚痴をこぼさず、毅然と立ち向かった。まだまだ取り組みたいプランは多かった。志半ばの生涯であった。

青年が大学を留年しつづけ、その後も定職につかない傾向の増加を分析し、彼らを人生の選択をさけていつまでも可能性を保ったまま、大人になることを拒否して猶予期間にとどまる「モラトリアム人間」と呼んだ。1978年の『モラトリアム人間の時代』(中央公論新社)時代の病巣を衝いた言葉として大きな話題となった。私もこの本を読んで膝を打ったことがある。このモラトリアム意識が若者だけでなく、当事者意識が薄くなり、上司に判断をゆだねていく傾向にが広がって、しだいに高い年齢層にしみわたりつつある状況に危機を覚えていた。一つの概念が、時代の中核を衝くことがある。小此木啓吾の「モラトリアム人間」がそれである。