アンパンマンの「やなせたかし」ーー「なんのために生まれて なにをして生きるのか」

アンパンマン」の作者のやなせたかしの本を読んだ。

やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家詩人。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

「何のために生まれてきたの?」(PHP)を読んだ。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

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大学。

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「名言との対話」9月25日。沖永壮一「社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる」

冲永 荘一(おきなが しょういち、Dr. Shōichi Okinaga、1933年6月29日 - 2008年9月25日)は、日本の学校法人経営者、教育者医学者。

財団法人帝京商業学校を創設した冲永荘兵衛の長男として1933年東京府荏原区(現・品川区)に生まれる。1958年東京大学医学部卒業後、1963年に東京大学大学院医学系研究科博士課程を修了、医学博士号を取得した。その後1966年に帝京大学を創設し学長理事長に就任、1981年には同大学総長に就任し、2002年に総長を退任するが、その後は学主(owner)として逝去するまで同大学トップの地位にあった。

51歳の時に刊行した『ひたすらの道 私と帝京の半生記』を読んだ。まだ50代に入ったばかりのときの自伝であるから、帝京グループの創世期の苦労が語られている。180名足らずの中小企業的組織から始まり、4000名までになった創業の物語だ。

高校から大学受験のあたりでは、当時の青年と同じくフジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍や、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞に感激し励まされている。1963年には医学博士になるのだが、その論文は翌年に日本婦人科学会賞を受賞しているから、医学の道に進んでいたら優れた研究者になっていただろうと推察される。

帝京大学創設時は32歳だった。1966年はベビーブームの波が大学入学年齢にさしかかった時だ。次の目標は医学部設立になった。よくも悪くも慎重と自認する沖永は最後は厳島神社のおみくじの「吉」で決断し、苦労の末に医学部を設置する。医学部設置は学生の質の向上ももたらした。教授陣も充実させている。医学部は安部英教授、経済学部は佐貫利夫教授、降旗節雄教授、星野芳郎教授、法学部は神谷尚男教授、など一流の教授陣を招くことに腐心している。

沖永の処世の原点は「他人にやさしく、自分にきびしく」である。その沖永は、生徒数が減少するときのことを考えて、ブームのピーク時でも長期的なコスト負担となる新規採用をしない。ブームのダウンの時に焦点を当てて、ピーク時は「ワンポイント・リリーフ」で切り抜けている。慎重居士の面目躍如だが、この本の中で初めて明らかにしたのは、資金源である。意外だが、資金は株であった。絶対値に限りなく近いと思われる株を購入し、値上がりや配当金を資金としたと明らかにしている。

帝京は「実学」を標榜している。専門学校で学ぶのは「実技」であり、大学は実学を学ぶところだ。技と学とはまるで違う。これが沖永の主張である。

石橋を何度もたたいてから渡る沖永は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の「ニュー・ディール」を高く評価している。イデオロギーや夢で国民を釣るのではなく、淡々とそして全力でやったリキミのない点を参考にしていたのである。

社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる。その中で中長期の発展を期す戦略を持っていた。その後、10数年の帝京の躍進は沖永壮一の戦略に沿っているようにみえる。また、1973年生まれの「非常に常識的な男である」という二男の佳史が後を継いでいる。この人とは何度か私も会議でご一緒している。多摩大の「現代の志塾」という教育理念に感心してもらったことがある。

沖永壮一は社会の激流の中を、手持ちの資源と将来の目標を見つめながら、慎重な手綱さばきで泳ぐことに成功した人だろう。