今年の知的生産。

今後の知的生産について考える時間を持った。

・雑誌原稿執筆。4回目と5回目の目途。

・アラハン企画の処理を考える。まずは形に。

・「体系」のつくりかたを検討。新しいアイデアが誕生。蓄積を活用。

・夜と朝の使い方についての方針。

-------------------------

カラダの日。

・ヨガ:1時間。骨盤を柔らかく。

・ジム:ウオーキング50分5キロ(時速6キロ)足中心の筋トレ。2時間。

ーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月1日。シャルル・アズナブール僕は職人だし、一生職人であり続けると思います」

シャルル・アズナヴール(Charles Aznavour, 1924年5月22日 - 2018年10月1日)は、フランスパリ出身のシンガーソングライター俳優

トルコから移民したアルメニア人の子としてパリに生まれる。7歳のとき子役で芝居に初出演し、12歳で映画にもデビュー。1941年に作曲家のピエール・ロッシュと知り合っていくつかのシャンソンを共作、1944年から1950年まで「ロッシュとアズナブール」というデュエットを組んで活躍した。1952年にソロ歌手として独特の声とジャズの感覚を取り入れた唱法で新境地を開き人気を博した。フランスの国民的、そして世界的シャンソン歌手となった。ハンカチを使いながら歌うラ・ボエーム」、「ラ・マンマ」「世界の果て」などのヒット曲がある。アルバムは生涯累計で1億8000万枚の売り上げを記録している。

シャンソンはフランス歌謡で、とくにパリを中心にした流行歌をさす。「シャンソンは「一編の短いドラマである」といわれるように歌詞が重視される。歌い手よりも、シンガー・ソングライターが歓迎される。アズナブール自身も、作曲や作詞も手がけ、1400曲以上のシャンソンを書いた。また「アイドルを探せ」「ブリキの太鼓」などの60本以上の映画に出演している。

2018年9月17日にはNHKホールで日本のファンを魅了するコンサートを開いている。2時間近く歌続け、朝日新聞は「94歳 驚異的な声と艶と張り」と評価している。その2週間後に亡くなったとき、マクロン大統領は、「フランス人でありながら、彼が自身のルーツであるアルメニアに深く根ざしていたことは世界中が知っています。彼は3世代にわたって喜びや痛みを分かち合ったのです。彼の残した傑作、彼のメロディー、無二の輝きは永遠に語り継がれるでしょう」と、移民の国・フランスらしいメッセージを出している。

日本でも「帰り来ぬ青春」が大ヒットする。多くの曲に日本語の歌詞がつき、日本人シャンソン歌手が歌った。春の叙勲で日仏交流に功績があったとして旭日小綬章を受章している。また、「私は旅する」「世界の果てに」にみる好奇心や心意気で聴く人を励ました。冒険家を自認していた、今日のシャンソンの父・アズナブールはまさに生涯現役でシャンソンに関わる職人人生を満喫したのである。

 

 

 

シャン

ソンは「一編のる」ャンソンは「一編の短いドラマで