日田。

母といろいろ話をしながらドライブ。日田まで1時間。豆田町で日田名物のうなぎを食べる。

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いいちこ蒸留所は定休日。
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 「名言との対話」10月8日。高木仁三郎「科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ」

高木 仁三郎(たかぎ じんざぶろう、1938年7月18日 - 2000年10月8日)は、日本の物理学者、専門は核化学

1961年、日本原子力事業に勤務。1965年東京大学原子核研究所助手。1969年東京都立大学理学部助教授。1972年マックスプランク核物理研究所客員研究員。1973年東京都立大学を退職し、反原発活動を展開していく。

 市民の立場から原発などの原子力の平和利用の危険性を指摘し、人間、科学、自然との共存を提唱するエコロジー運動の草分け的存在となる。生涯をかけて原発問題に取り組んだ。1974年プルトニウム問題を考える自主グループ「プルトニウム研究会」を組織。1975年原子力資料情報室専従世話人となる。(のちに、代表)。1988年、反原発運動全国集会事務局長。2000年、死去。享年62。著作に『わが内なるエコロジー』『プルトニウムの恐怖』『核時代を生きる』『市民の科学を目指して』などがある。

 1995年、『核施設と非常事態 ―― 地震対策の検証を中心に ――』を、「日本物理学会誌」に寄稿し、「地震」とともに「津波」に襲われた際の「原子力災害」を予見した。福島第一原発 は「老朽化原発」であり、「廃炉」に向けた議論が必要な時期に来ていると 指摘した。 加えて、福島浜通りの「集中立地」についても、「大きな地震が直撃した場合など、どう対処したらよいのか、想像を絶する」と 、その危険に警鐘を鳴らしていた。「原発は壊れない」建て前になっていて、そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは避けられてきており、原発が被災した場合の緊急時体制や老朽化原発対策などを真剣に考えるという姿勢もまったくみられないことに警鐘を鳴らした。死去の翌年2011年3月11日に発生した東日本大震災でその警鐘が現実のものになった。

死去した2000年に次の時代の「市民科学者」をめざす個人やグループに資金面での奨励・育成を行ってほしいとの遺志により「高木仁三郎市民科学基金」が設立される。科学者としての専門性を持ちながら、市民の視点にたって諸問題の解決を目指そうとした。NPO・NGO・市民グループ等で活動しながら「市民科学者」を目指す人々を応援するため、日本国内およびアジアの個人・グループによる市民科学をめざす調 査研究・研修への助成を実施している。

「ことさらに安全、安全ということによって安全が身につくのではなくて、技術というものの一部に、人間の生命を大事にするような思想が自然と組み入れられていないといけない」と高木は科学思想を語っている。数年前に日本未来学会で出会った植田昌文さんの名刺には「NPO法人市民科学研究室」と書いてあった。高木の後継者の一人だろう。高木の遺志を受け継いだ「市民科学」の発展を祈る。