台風19号一色の日。BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」。

台風19号一色の日。

 台風のニュースをテレビでみながら過ごす。BSプレミアムの「100年インタビュー」で「やなせ・たかし」を流していた。93歳で矍鑠とした話しぶりで、いいことを言う。どこかで聞いたことがある言葉だと思っていたら、先日読んだ本はこのインタビューを起こしたものだと気がついた。本人の語りを聴いて改めて感心した。

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「名言との対話」10月12日。ミヤコ蝶々「人間は苦労時代が本当の幸せなのです」

ミヤコ蝶々(ミヤコ ちょうちょう、女性、1920年7月6日 - 2000年10月12日)は、日本女優漫才師

 娘を芸人にしたいという父は、朝から三味線、洋舞、日舞、唄、漫才、文字の稽古、夜は芝居という生活を強いた。そして柳枝劇団では床山、お囃子、芝居の台本も書いた。そういう経歴なので何でもできた芸人になる。

 日本図書センター人間の記録シリーズはずいぶんと読んだが、『ミヤコ蝶々』は違う。男性の自叙伝は仕事中心であるが、蝶々さんの場合は本人が2回半という結婚をめぐる物語になっている。立派な職業を持ち成功した女性でも、過去を見つめるときには男と女の関係が最重要なテーマとなるのだろうか。

22歳で三遊亭柳枝と同棲、27歳で離婚。27歳で弟子で5歳ほど年下の南都雄二と結婚、42歳で離婚。学校に行っていない蝶々が「なんという字?」とたびたび聞くことからついた芸名だ。6年間の柳枝と12年間の雄二。二人の共通点は女癖の悪い所で、苦労を重ねる。そしてAさんとの8年の恋愛で結婚しそこねたこと、それが「半」という表現になっている。

35歳、ラジオ放送で「夫婦善哉」を始める。本職の漫才をやめて夫婦善哉に専念する。南都雄二との離婚後もコンビは継続。46歳、自伝「女ひとり」を出版。52歳、南都雄二死去。53歳、「女ひとり」を上演。55歳、20年続いた「夫婦善哉」終了。57歳、蝶々新芸スクールを開校し校長。2000年、80歳で没。2008年には生前の自宅の一部を改装した「ミヤコ蝶々記念館」がオープンしている。

 「あんたは立派すぎるぐらい、いい女房やと思う。しかし、ある意味で立派すぎて僕はしんどい」「あんたは男を甘えさせ過ぎる。、、、自分が居らんでもこの女は生きていける、しっかりしている、そんなら別れるか、、、となる」と語った南都雄二も、そしてAさんも同じ考えだった。できすぎた女の悲劇だろう。

私も「夫婦善哉」もよく見たが、「スチャラカ社員」の女社長役の蝶々の演技も覚えている。半生をかけた代表作「夫婦善哉」は20年続けた長寿番組だ。笑いの中で、「夫婦とは一つの道を歩くことが何でもないようで、一歩一歩踏みしめて味のある、でも一歩間違えば、難しいものだなァと、見る人の胸に何となく残す」のが、趣旨だった。この番組は蝶々が高く評価していた上沼恵美子が後任となった。

お金で愛は買えない。貧しかったからこそ愛が生まれた。地位と名誉と財産は、愛を引き裂くものだ。それがミヤコ蝶々の述懐だ。男と女、夫婦、そして人生とは難しいものだなあ。 

ミヤコ蝶々―おもろうて、やがて哀し。 (人間の記録)

ミヤコ蝶々―おもろうて、やがて哀し。 (人間の記録)