敢闘賞! ラグビーワールドカップの日本チーム

日本中がラグビーワールドカップのベスト8戦、日本・南ア戦をみただろう。前半は互角、後半は力の差が出て敗れたが、日本のメンバーはよく戦った。にわかファンではあるが、この期間の選手の健闘を讃えたい。相撲でいえば「敢闘賞」だな。

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「名言との対話」10月20日カダフィ緑の革命

 ムアンマル・アル=カダフィアラビア語: معمر أبو منيار القذافي, muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī, 1942年6月7日[1] - 2011年10月20日)は、リビア軍人革命家政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。

 北アフリカリビアは人口は1986年時点でわずか376万人、2017年には637.5万人と増加している。国土はアフリカで4番目に大きい。日本の4.6倍。首都はトリポリ。 カダフィ1969年に王位を廃するリビア革命によって政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持した。

 1990年発刊の平田伊都子『カダフィ正伝』を読んだ。

エジプト革命のナセル大統領を尊敬していた。革命時、ナセルは大佐だった。そのためカダフィも大佐という階級を名乗っている。ナセルの死にあたってカダフィは「アラブ統一は、私にまかせてください!」と秘かに誓った。同一言語を持つ同一民族のアラブの統合という夢である。

 歴史と伝統をふまえたうえでの人民革命は、物質主義万能の資本主義でもなく、無神論共産主義でもない、第3の道だ。 カダフィは「緑の革命」をスローガンとして食糧自給をめざした。国土の90%以上が砂漠。その砂漠の緑化に力を注いだ。石油収入だけに頼らず、産業部門を拡充することを目指した。外国人を頼りにしないで、労働力の自給化をはかる。

カダフィは彼の思想をまとめる努力をしていた。夜の時間は思考と研究にあてていた。それが「緑の書」に結実している。1075年、第一部「民主主義」。1978年、第二部「経済」。1979年、第三部「社会問題」。カダフィはアラブの毛沢東にならんとしたのだろうか。この書を書くため何度か引退を表明しているが許されなかった。

 2003年末には核放棄を宣言し査察団の受け入れを行った。アメリカなどは経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外した。2006年5月15日にはリビアアメリカの国交正常化が発表された。2011年リビア内戦によって政権崩壊し、10月20日カダフィは殺害された。2019年現在でもリビアは内戦が続いている。

日本へのメッセージは、「日本政府は嫌いだが、日本人民を尊敬し、大好きだ」「原爆を投下された日本は米国に損害賠償を請求すべきだ」。

リビアを作ったのは私だ、そしてリビアを破壊するのも私だ」「もし私が大統領であれば辞任しただろうが、そもそも辞める役職がないのだ」などの言葉がある。

 

カダフィ正伝―誕生から革命秘話、そして激動の半生を初めて語る

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