即位礼正殿の儀。

即位礼正殿の儀。

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・10月分の「名言」の筆債終了。

10月15日。 ジョー・スタンカ

   「円城寺 あれがボールか 秋の空」

10月17日。 田島治子

   「打たれ強くなって大きくなる」

・本2冊の原稿チェック。

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「名言との対話」10月22日。春日八郎「歌こそ我が生命」

春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みのる)、1924年10月9日 - 1991年10月22日)は、日本演歌歌手

 福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身。浅草で藤山一郎のステージを見て歌手に憧れる。旧制会津中学校を中退し、エンジニアを志して13歳で上京するが、歌手の夢を捨てきれず、音楽活動に励む。1952年、『赤いランプの終列車』は発売され、50万枚の大ヒットとなる。1954年、『お富さん』が発売3か月で30万枚、最終的には125万枚を売り上げる大ヒットを記録。1955年には『別れの一本杉』が60万枚の大ヒットとなり、歌手としての地位を確立する。春日八郎のデビュー直後に、三橋美智也、そして三波春夫村田英雄島倉千代子らが登場し、美空ひばりも演歌を歌い出す。1960年代には北島三郎都はるみ等が台頭し、演歌の全盛期をむかえる。その先駆けが春日だった。春日八郎は昭和の大歌手だった。

春日八郎は故郷の会津坂下町との縁を大事にした。町立八幡小学校にグランドピアノ等を寄贈し校歌を作曲、町立第二中学校の校歌応援歌も作曲した。会津坂下町民歌、会津坂下音頭を作曲し自ら歌いレコーディングしている。故郷の会津坂下町はその思いにこたえ、一本杉と地蔵が実在する船杉地区に「春日八郎記念公園・おもいで館」を建設した。愛用のピアノ、ステージ衣装や写真、楽譜、レコード、ステージ衣装、トロフィー、化粧道具等が展示されている。カラオケコーナーもある。会津坂下駅前の広場には春日の銅像を建立されており、『赤いランプの終列車』の歌碑も建立された。ブロンズ像に近づくと唄が流れてくる。1992年には「全国春日八郎偲ぶ会」が発足している。古賀政男音楽博物館では毎年春日八郎歌謡大会が開かれ、赤羽で月例会・春日艶歌伝承会も開催されている。こういった動きをみると、春日八郎という歌手は、人がらもよかったのだろうと思わずにはいられない。

 北海道夕張の近くの栗山町の坂本九思い出記念館にも「想い出」がついていた。思い出は、ふるさとへの思いにつながる。春日はふるさと歌謡、望郷演歌ともいうべきジャンルの開拓者でもあった。「赤いランプの終列車」「別れの一本杉」「山の吊橋」「故郷は遠い空」「母の便り」などは、春日自身ふるさと頭に描きながら歌ったのだろう。それに田舎から都会に向かった人々が共感したのだろう。こういったジャンルは、長淵剛の「とんぼ」、五木ひろしの「ふるさと」など、今なお健在だ。

晩年には三橋美智也、村田英雄らと共に「三人の会」を結成、三人揃ってのチャリティーコンサートを開催しており、話題になった。生涯で歌った曲は1600曲を越える。シングル300枚以上、LP100枚と膨大な数作品が世に出ている。レコードの総売り上げは7000万枚を超している。まさに「歌こそ我が命」の生涯である。