新宿の 中村屋サロン美術館で「荻原守衛展」。

来た道。

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行く道。

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 新宿でJAL時代の同僚と食事。

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新宿の 中村屋サロン美術館。

荻原守衛展をやっていた。新宿の荻原守衛(碌山)のアトリエ「忘却庵」は、中村屋の近くにあり、信州安曇野の同郷人としていつも出入りしていた。この美術館は2014年に開館。こじんまりとした感じのいい美術館。入館料は300円。

荻原はロダンに「考える人、が手本」というと、ロダンは「それなら私の弟子だ」と言い、「師は至るところに存在している」「自然を師として研究すればよい」とアドバイスした。18歳でみて画家になるとう決心した「亀戸風景」(長尾杢太郎)。彫刻ではたくましい「抗夫」に深い印象。

『新宿 ベル・エポックーー芸術と食を生んだ中村屋サロン』を購入。中村屋相馬愛蔵・黒光夫妻の記念館として研究しよう。

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 出版社:「長寿者列伝」。日経ビジネスインタビューを加える。

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「名言との対話」11月20日北の湖「終わったら、いつまでもクヨクヨしていても始まらない」

北の湖 敏満 (きたのうみ としみつ、1953年5月16日 - 2015年11月20日)は、北海道有珠郡壮瞥町出身の大相撲力士。第55代横綱

 湖という字は「うみ」とも読む。「北の湖」という素敵な四股名は、故郷・北海道の洞爺湖に因んでいる。

中学1年生で美保ヶ関部屋に入門に、怪童と呼ばれる。新入幕、横綱など数々の最年少記録を打ち立てた。関取8勝、大関10勝、横綱12勝が責任と考えていた。今でも大関貴景勝が10番がノルマと言っているから相撲界の常識となっているのだろう。

強すぎて憎らしいともいわれた。そして負けた相手に手を貸さない姿もそれに拍車をかけた。引退後の北の湖は「負けてみじめな思いをしているのに、手まで貸したらもっと嫌な思いをするでしょう」と心境を語っている。子どもが好きなものとして「巨人・大鵬・たまご焼き」という言葉はよく知られているが、嫌いなものとし「江川・ピーマン。北の湖」というのもある。

横綱輪島と築いた「輪湖時代」はよくテレビで千秋楽の熱戦を楽しんだものだ。ライバル決戦は、トータルでは北の湖の21勝23敗である。北の湖は輪島を「壁のような存在」「あの人がいたから私は頑張れた」と言い、輪島は「永遠のライバル」と返している。横綱時代は、関脇のつもりで周りに接し、大関にあがるころのように稽古に励んだ。この点は稽古嫌いの輪島と対照的だ。偉大な横綱ではなく立派な横綱になろうとした北の湖横綱在位63場所は白鵬に破られるまで歴代一位だった。24回の優勝をかざり、日本相撲協会から、20回以上の優勝を重ねた大横綱に贈られる一代年寄となり、「北の湖部屋」を興した。

 日本相撲協会では引退の2年後に審判委員に抜擢され、1988年には監事 として審判部副部長、1996年には理事に昇格。1998年には事業部長、2002年に第9代理事長へ就任した。田中角栄首相と同じく「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれたほど頭脳明晰で、現役時代の自身の取組の内容は全て完全に記憶していたというから、相撲界では貴重な存在だったのであろう。

辞任後、後任の武蔵川理事長、放駒理事長を一理事として支え。2012年には史上初の理事長再登板を果たす。「残りの相撲人生をかける覚悟です」と語った。そしてそのとおりに理事長現役のまま62歳で死去している。後任は八角理事長だ。北の湖理事長は、土俵の充実を掲げ、稽古、鍛錬を力士に要求した。また日本相撲協会の公益財団法人に移行させたという功績もある。墓所の川崎大師には境内に銅像がある。

 「勝つためには、とにかく前に一歩でもでる」「強くならなくても人間は頑張るのが当たり前、人間誰でも頑張るのが一番」が信条だった。負けた勝負のことはクヨクヨ考えずにすぐに忘れて、次に向かって前に進んでいく。それが北の湖の強みだった。横綱と理事長という二つの頂点を担った。実力と人望をともに備えた人だったのだ。