ハンセン病患者を救った聖医・小川正子ーー「生きてゆく日に愛と正義の十字路に立たば必ず愛の道に就け」

 小川正子記念館。

1902(明治35)生まれ。山梨県出身。19歳の正子は後に第三次吉田内閣の国務大臣となる樋貝詮三と結婚するが、2年3ヵ月で離婚。22歳で東京女子医学専門学校に入学。30歳、光田健輔園長(1876-1964)の長島愛生園に入る。1938年休職。療養中に『小島の春』を出版。1940年、映画化。1943年永眠。享年41。

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郷里の山梨県春日居町の記念館ではハンセン病に尽くした女性の名が挙げてあった。吉岡弥生(1871-1959)。石渡こと(1874-1947。全生病院初代婦長)。三上千代(1891-1978)。井深八重(1897-1989。らいとの誤診。ナイチンゲール賞)。神谷美恵子(1914-1979。女医。精神病棟)。嶋崎紀代子(1924生。マザーテレサとも親交)。

小川間正子を支えた人々。相馬黒光(1876-1955)は晩年の正子を勇気づけ、戦時中にバターや砂糖を贈っている。土井晩翠夫人の土井八枝(1879-1948)。

ハンセン病は、天刑病、業病と呼ばれ、遺伝性の不治の病とされていた。まつ毛の脱毛、顏の変形、視力障害などが現れる。聖書にもこの病のことが記されている。

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1873年にノルウエーのハンセン医師がらい菌を発見し、この病気は伝染病となった。この病気は感染力は弱いが、潜伏期間が長い。1943年にアメリカのルイジアナ州カルビーの医師・ファチェーがプロミンを発見し、人類3000年の歴史の一大奇蹟となった。カルビーの奇蹟。

アレクサンダー大王の遠征でもたられたギリシャでは象皮病と呼ばれている。十字軍の遠征によってヨーロッパに広がった。

720年の日本書紀。背中の膿を口で吸い取った聖武天皇の妃の光明皇后。1110年頃の今昔物語。1217年、救らい施設として忍性菩薩が北山十八間戸を営む。一遍上人(1239-1289)は諸国をまわりながら患者を救済した。1300年頃の源平盛衰記。近代日本の救らい活動は内外の宗教家、特にポルトガル、フランス、イギリスなどの外国人宗教家によって始められた。1909年「らい予防に関する件」が施行され、全生病院(後の多磨全生園)など1931年「らい予防法」の全面改正で隔離施策が採用される。その一つが長島愛生園である。公立の療養所が全国につくられていく。1999年に「らい予防法」が完全に廃止される。「らい予防法は違憲」との熊本地裁の判決で国は控訴せず結審した。

大正天皇の妃・貞明皇后「つれづれの友となりておなぐさめよ ゆくことかたきわれにかわりて」。

1993年の歌会始の詠歌に入選した「なえし手に手を添えもらひわが島鳴らす鐘はあしたの空にひびかふ」は祈りの歌人・谷川秋夫の歌。

この島に住まひて既に六十年今日あるはただ神の憐み(近藤宏一。11歳で島に来た全盲の人)。、、、思へ人離れ小島の山かげに癩女がひとりするひな祭りを。

肺病療養中に書いた小川正子 『小島の春』は自費出版で200部の予定だった。文選工の少年画泣きながら活字を拾っているのを見て長崎出版の社長は100部を増刷する。最終的には30万部の大ベストセラーになる。正子は印税をすべて患者たちのために贈った。主演は夏川静江、母は杉村春子、子役は中村メイコの映画はキネマ旬報で1位になる

 以下、正子の歌。

 雪国の雪靴のままかけつけし 母を迎えてなみだながるる

 病室のドアを開けば国訛り 高くさけびてとり縋りたり

 吾も知れる御詠歌の節あはせ うたひてわれも行きたくなりぬ

 夫と妻が親とその子が生き別かる悲しき病世になからし

正子は病を病んで郷里に戻る。「神様はどうして私をらいにしてくださらなかったのですか。わたしは神さまをうらみます」。墓碑には「生きてゆく日に愛と正義の十字路に立たば必ず愛の道に就け」と刻まれている。4月29日は「花にら忌」になった。正子は地味だが、春に先駆けて清楚に咲くこの花をこよなく愛し3首を詠んでいる。

 ハンセン病を描いた作品。北条民雄いのちの初夜」。松本清張砂の器」。映画「ベンハー」。

 以下も読了。

小島の春―ある女医の手記 (1981年)

小島の春―ある女医の手記 (1981年)

  • 作者:小川 正子
  • 出版社/メーカー: 長崎出版
  • 発売日: 1981/08
  • メディア:
 

 

 参考:名誉町民小川正子女史生誕100周年記念「悲しき病世に無からしめ」。

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大学で近藤さんと打ち合わせ。

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NGOペシャワール会(福岡)の中村哲(73歳)さんが本日4日、アフガニスタンでテロで死亡。中村さんは「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイア賞を受賞。2018年10月にアフガニスタンのガニ大統領から、市民証(名著市民権)を授与され名誉国民の待遇をうける。九大医学部を卒業後、国内病院勤務を経て、1984年にパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任し、20年以上にわたってハンセン病を中心とした医療活動に従事していた。タリバンは「襲撃には関与していない、この団体(ペシャワール会)は復興に関わっており、タリバンと良好な関係を持っていた。(この団体の)誰も標的ではない」とコメントした。両方から感謝される活動だった。この道が日本の道だろう。

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「名言との対話」12月4日。本田靖春私には肝ガンという「記念メダル」がある」

本田 靖春(ほんだ やすはる、1933年3月21日 - 2004年12月4日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。

1955年、読売新聞社に入社。 1964年、売血の実態を探った『黄色い血』追放キャンペーン」を行った。当時、輸血用の血液は血液銀行に90%以上依存していた。業者に1本(200cc)数百円で血を売るのは主に山谷などドヤ街で暮らす貧しい日雇い労働者だった。黄色い血とは極端に赤血球が薄い血液のことだ。こういったシステムで被輸血者の約5人に1人の確率で「血清肝炎」患者が出ていた。本田は自ら血液銀行に血を売りに行き売血産業の実態を取材したのだ。この「黄色い血」追放キャンペーンの影響もあり、1966年5月にミドリ十字が完全撤退を決め、日本の輸血は献血中心に移行する。日本報道史上に残る快挙であったが、一方で代償も大きかった。本田自身も後年、肝臓ガン(肝ガン)を発症してしまうのである。

ニューヨーク支局勤務ののち、1971年、退社。1984年、売春汚職事件で一時逮捕された立松和博記者を取り上げた『不当逮捕』で第6回講談社ノンフィクション賞受賞。主な作品に、吉展ちゃん事件を取材した『誘拐』(1977)、金嬉老事件を取材した『私戦』(1978)がある。綿密な取材には定評がある。

「より強く、より大きくならなければならないのは個々人であって、国家ではない。これは現代において、自明の理である。強大な国家権力の下で国民が完全支配を受けるとき、いかに多くの不幸が生み出されることか」。こういう思想で積み上げた全作28作品が電子書籍化されている。ノンフィクション作家では初めてだ。

本田は肝がんに続き、2000年に糖尿病のため両脚を切断、大腸癌も患い、同年から『月刊現代』で「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載を開始したのだが、46回で中絶した。その読売新聞時代のことを書いた582ページの大著『我、拗ね者として生涯を閉ず』を読んだ。本田靖春という名前は知っていたが、何を書いかたかは不覚にも知らなかったので、今回読んでみた。幼少期から読売新聞時代、辞めるあたりまでを描いた自伝である。新聞社の内実、巨人・正力松太郎の実像などが書かれており、興味深い。この連載が最後まで続いたら、面白かっただろう。以下、本田の言葉から。

・保守化、そのあとを受けた政治的無関心は、この国の将来を危うくしている。

・「おじいちゃんはね、若いころ新聞記者をしていたんだよ」「フーン、でどういうお仕事をしたの?」訊かれたとき、私には語って聞かせる物語を、何ひとつとして持ち合わせせていないことに気づくであろう。そう思うと、ゾーッとした。おれは、いったい、何をやって来たんだ、と」。

・自分が現に関わっている身内的問題について、言論の自由を行使できない人間が、社会ないしは国家の重大問題について、主張すべきことをしっかり主張できるか、

・新聞記者には新聞記者魂というものがある。かつてはそうであった。

田中健五「人間にとっての歳月は、年齢分の一になるんだそうですね」「人生には三回の出会いがあるんだそうですね」

・由緒正しき貧乏人のすることではない。

・欲を持つとき、人間はおかしくなる。いっそそういうもの絶ってしまえば、怖いものなしになるのではないか。

 「それでもいいかな、という思いがある。なぜなら、このガンは私が社会部記者をやっていた証のようなものだからである」。自身の肝がんは社会派ジャーナリスト・本田靖春という仕事師の勲章というとらえ方だった。

 

我、拗ね者として生涯を閉ず(上) (講談社文庫)

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