中村哲語録ー「100の診療所より1本の用水路を」

NGOペシャワール会(福岡)の現地代表の中村哲(73歳)さんが4日、アフガニスタンでテロで死亡した。九大医学部を卒業後、国内病院勤務を経て、1984年にパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任し、20年以上にわたってハンセン病を中心とした医療活動に従事していた。

中村さんは「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイア賞を受賞。2018年10月にアフガニスタンのガニ大統領から、市民証(名著市民権)を授与され名誉国民の待遇をうける。

タリバンは「襲撃には関与していない、この団体(ペシャワール会)は復興に関わっており、タリバンと良好な関係を持っていた。(この団体の)誰も標的ではない」とコメントした。政府と反政府の両方から感謝される活動だった。この道が日本の道だろう。

以下、中村哲医師の語録から。今後、もっと収集していくつもり。

「100の診療所より1本の用水路を」

「依然として『テロとの戦い』と拳を振り上げ、『経済力さえつけば』と札束が舞う世界は、砂漠以上に危険で面妖なものに映ります」

「子どもたちや孫たちによいアフガニスタンを残すこと、それがいちばんの課題だ。この国にできるだけ緑を増やして砂漠を克服し、人々が暮らせる空間を広げたい」

アフガニスタンは40年間ずっと戦争が続いているが、いまは戦争をしている暇はないと思う。敵も味方も一緒になって国土を回復する時期にある」

「照一隅(いちぐうをてらす)」

「誰もが行くところには誰かが行く。誰もが行かないところにこそ我々に対するニーズがある」

「私たちが貫いてきたのは、なるべく地元の素材を利用し、地元のやり方で、そこの人々の手を借りて、ローカルの力を活用すること」

「三度の飯が食えて、家族が一緒に暮らすことができれば良い」

「お金があれば幸せになれるという迷信、武力で平和は守れるという迷信に惑わされないでほしい。本当に人間にとって大切なものは何なのか、大切でないものは何なのかを考えてほしい」

「僕は、てっきり戦争難民だと思ってた。ところが“干ばつ難民”ですね、半分以上は。これ、砂漠だったんですよ」

「実際、病気のほとんどが十分な食料と清潔な飲料水さえあれば、防げるものだったから」

「必要なのはお喋りではなく、実弾である。 現地の我々は、飲料水確保に全精力をつぎ込む。水は命である」

「基礎に栄養状態が良くないというのがあります。それから衛生状態が良くないと。水で洗うだけでかなり良くなるんですが。水そのものが欠乏している」

「人は忙しく仕事をしていれば戦争のことなど考えません。仕事がないからお金のために戦争に行くんです。おなかいっぱいになれば誰も戦争など行きません」

「これは平和運動ではない医療の延長なんですよ。医療の延長ということは、どれだけの人間が助かるかということ。その中で結果として争い事が少ない、治安が良い、麻薬が少ないということが言えるわけで、これが平和への一つの道であるという主張をしたことは少ないと思います。ただ戦をしている暇はないんですよと。戦をするとこういう状態がますます悪くなるんですよと。それにはやっぱり平和なんですよ。それは結果として得られた平和であって、平和を目的に我々はしているわけではない」

「鍬も握っていない外国人が農業支援を行うことはできません」

「『国際化』の致命的な欠陥は、 下から上を見る視点の欠落である」

「『戦争協力が国際的貢献』とは言語道断である」

「いわゆる教育の浸透するところ、 若者は長老の迷信と陋習を笑い、 都市に流入する。農村は荒廃してゆく」

「御託はもう結構。 ただ実行あるのみ」

「我々の歩みが人々と共にある「氷河の流れ」であることを、あえて願うものである。その歩みは静止しているかの如くのろいが、満身に氷雪を蓄え固めて、巨大な 山々を確実に削り降ろしてゆく膨大なエネルギーの塊である。我々はあらゆる立場を超えて存在する人間の良心を集めて氷河となし、騒々しく現れては地表に消える小川を尻目に、確実に困難を打ち砕き、かつ何かを築いてゆく者でありたいと、心底願っている」

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総研ミーティング:事業構想。けやき出版。、、、

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「名言との対話」12月5日。バーブ佐竹「顏じゃないよ、心だよ」

バーブ 佐竹バーブ さたけ、1935年2月7日 - 2003年12月5日)は、日本の男性歌手である。本名は佐武 豊(さたけ ゆたか)。作曲家としてのペンネームはシナ・トラオ。

1957年に上京。ハワイアンバンドでボーカルをしていた。クラブ歌手として新宿で歌っているところを作曲家の吉田矢健治が発見する。1964年に吉田矢健治が作曲した「女心の唄」でデビューする。ムードのある低音は多くの人の心をとらえ、この歌は250万枚を売る大ヒットとなった。1965年には日本レコード大賞新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にもその年から連続4回出場した。

バーブ佐竹の歌には 「ネオン川」、「カクテル小唄」、「虫けらの唄」、「星が云ったよ」、そして自身がシナ・トラオの名前で作曲した「青いゴムゾーリ」などがある。

しかし何といっても「女心の唄」が一番の代表作だ。私もカラオケでよく歌う。

あなただけはと信じつつ 恋におぼれて しまったの 心変わりが せつなくて つのる思いの しのび泣き。どうせ私を だますなら だまし続けて ほしかった 酔っている夜は 痛まぬが さめてなおます 胸の傷。うわべばかりと つい知らず ほれてすがった 薄情け 酒がいわせた ことばだと なんでいまさら 逃げるのよ。女ですもの 人並みに 夢を見たのが なぜ悪い 今夜しみじみ 知らされた 男心の うらおもて。逃げた人など 追うものか 追えばなおさら つらくなる 遠いあの夜の 思い出を そっと抱くたび ついほろり。

デビュー作が代表作となった歌手である。いかつい顔とムーディーな低音の歌唱力とのアンバランスがよく話題になった。それを端的に示すのが、「顏じゃないよ、心だよ」で、流行語となった。顔と歌を共通項として同じような立ち位置の菅原洋一らと「モスラ会」を結成し話題になったこともある。バーブ佐竹はコンプレックスを逆手にとって、本来の才能を開花させた人といえるだろう。