「修養・鍛錬・研鑽」ーー安岡正篤。新渡戸稲造。野口英世。二宮尊徳。本多静六。佐藤一斎。

「立志人物伝」の11回目の授業。本日のテーマは「修養・鍛錬・研鑽」。

安岡正篤新渡戸稲造野口英世二宮尊徳本多静六佐藤一斎。4日に亡くなった中村哲医師の「100の診療所より1本の用水路を」などの言葉を紹介。

佐藤一斎「少壮老死」、安岡正篤の「平成」、二宮尊徳の「積小為大」、本多静六の「人生計画総括表」などが印象に残ったようだ。静かな授業だった。

昼:ラウンジで高野課長、久米先生、樋口先生と懇談。

午後:マグネットの岩沢さんと打ち合わせ。「選集」の進め方。「現代の論語」。

夕方:公園を散歩。

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「名言との対話」12月6日。トゥンク・アブドゥル・ラーマン「日本人は一度決心したら必ずやり遂げる民族だ。私の顔に免じてもう一度だけ呼んで欲しい」

トゥンク・アブドゥル・ラーマン(Tunku Abdul Rahman Putra Al-Haj ibni Almarhum Sultan Abdul Hamid Shah、1903年2月8日1990年12月6日)は、「マレーシア独立の父」であり、マラヤ連邦の初代首相である。

1918年イギリスのケンブリッジ大学聖キャサリン校に留学。1925年学士を取得。1947年から再度留学し弁護士の資格を得た。 1957年8月31日がイギリスから独立しマラヤ連邦独立の日と決定し、マラヤ連邦の首相に就任。1963年にマラヤ連邦サバ州サラワク州シンガポールが統合してマレーシアとなった際に、初代首相に就任した。1964年、民族構成の大きく異なるシンガポールを追放。やむなくリークアンユー率いるシンガポールは独立する。1967年、ラーマン首相が、タイフィリピンインドネシアシンガポール、マレーシアの5国による東南アジア諸国連合ASEAN)結成を実現させた功績は大きい。1970年、首相辞任。私もマレーシアのラーマン首相の活躍はよく覚えている。

ラーマンは日本びいきだった。1963年のサッカー・アジアユース選手権の第7回ムルデカ大会では、実行委員会で招待チームを決める際、日本チームは弱く観客動員も期待できないから呼ぶのは止めようという意見が大半だった。最後にアジアサッカー連盟のラーマン会長(首相)が立ち上がり、「日本人は一度決心したら必ずやり遂げる民族だ。私の顔に免じてもう一度だけ呼んで欲しい」と力説し、日本が招待された。日本は素晴らしいサッカーでスタジアムを満員にし、準優勝を果たす。自信を付けた日本代表は翌年1964年の東京オリンピックでベスト8入りを果たした。ラーマン首相は日本サッカー界の恩人でもあった。

ラーマン首相のつくったアセアンは、その後、カンボジアブルネイベトナムミャンマーラオスを加えて、10ヵ国に拡大し、2015年には共同体となった。「アセアン10(テン)」と呼ばれ、50周年を超えたアセアンは世界の成長センターとして注目されている。日中韓を加えたアセアン+3、東アジア地域包括的経済連携協定(RCEP)などでも、中心的役割を果たしつつある。

ラーマンの初代首相、アセアンの提唱者という実績を眺めると、国家や共同体の創業者というイメージが湧いてくる。創業の精神にあふれた熱血漢だったのだろう。