「交通事故死は1日10人弱、自殺者は6倍以上の1日66人」

免許更新で町田警察署へ。

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 「平成30年交通事故」という表示が目に入った。交通事故死は全国で3532人。都内で143人。ずいぶんと少なくなったと思い、調べてみた。1970年がピークで16765人。1万人を超えていた1990年前後から減少期に入り、2018年は3532人にまで減っている。

なぜ少ないと感じたかというと、「年間3万人を大きく越えて、 1日100人が自殺」という大数が頭にあったからだ。こちらも調べると、1978年から1997年までは、2万人から2万5千人の間だ。1998年から32863人と急増。ピークは2003年で34427人。2009年から下がり始める。2015年24025人と1997年水準に回帰。男性は女性の2倍以上。40代、50代が多い。原因は、「健康問題」「経済・生活問題」「家庭問題」の順。

 「交通事故死は1日10人弱、自殺者6倍以上の1日66人」と覚えておこう。

2011年の餓死は1746人。一日5人弱。この14年間で1.7倍。

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「名言との対話」12月10日。中井英夫「学徒出陣を国のため君のためと心底思いこんでいた人間は、まったく少数の異端者だったことをあきらかにしておかなければならない。そしてそのくせ、兵隊はいやだという発言を誰ひとりなし得なかったことも確かなので、戦中派の戦後の沈黙は、かかってその恥にあるといっていい」。

中井 英夫(なかい ひでお、本名同じ、1922年9月17日 - 1993年12月10日)は、日本短歌編集者小説家詩人

 2016年に偶然、神保町の古書会館で「戦後70年 中井英夫 西荻窪の青春展」を見たときに、1927年生まれの88歳だった歌人尾崎左永子の講演を聞いた。中井英夫中城ふみ子寺山修司、青の会、馬場晶子らの名前が出ていた。会場で中井のことを少し知った。3歳から日記と短歌も始め、大学ノートは100冊に近い。学徒動員で市ヶ谷の参謀本部に配属。戦争や軍隊への憎悪を日記「彼方より」に書く。東大文学部言語学科に復学するが中退し、日本短歌社に入社。「乳房喪失」で中城ふみ子 「チェホフ祭」で寺山修司をデビューさせる。江戸川乱歩賞で次席となった「虚無への供物」は戦後推理小説ベストテンに入ると埴輪雄高が評価している。「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」と1993.6.10のメモにある。52歳で第2回泉鏡花文学賞を受賞。71歳、死去。

 その会場で買った「中井英夫戦中日記 彼方より」(河出書房新社)を翌日に読んだ。「短歌研究」五十首詠特選の第一回の中城ふみ子のデビュー作「乳房喪失」の原題は「冬の花火−−ある乳癌患者のうた」であり、第二回の寺山修司の「チェホフ祭」の原題は「父還せ」だった。いずれもた中井が一人で決めたものである。 2013年に、世田谷文学館で始まった「帰ってきた寺山修司」展をみたことがある。いくつか知らないこともわかった。「短歌研究」編集長の中井英夫が茂吉などの短歌界の巨人が没した後にスターを探していて高校生の寺山を発見し、「チェホフ祭」を特選にした。「昭和の啄木」「もし長生きして名作曲家とコンビを組んだら、山田耕作北原白秋のような国民的詩人になっただろう」と評価した。寺山が中井英夫に出した手紙が多く展示されていた。中井は名伯楽だったのだ。

「もゆる限りはひとに与える乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず」と詠んだ前衛短歌の中城ふみ子のことは渡辺淳一冬の花火」に詳しい。

中井は江戸川乱歩に読んでもらいたい一心で10年の歳月をかけて摩訶不思議な「虚無への供物」という作品を完成させている。江戸川乱歩への手紙は、「虚無への供物」完成の自信をうかがわせる。「後編ではようやく、現実と寸分隙の無い形での非現実世界の犯罪を、そして、あらゆる探偵小説の約束を生かしながら結末ではそれとは違う何かを僅かばかりでもお眼にかけれるかと考えております」。

小説について。「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」」。

短歌について。「何度でもいおう、自分の生活を、そこに起こった現象を過信するべきではない。そこに働いている、眼に見えぬ意味を探りとることだけが詩人の仕事だと」「この世の中に、まだまだ未知の不可思議が隠されており、それを自分の言葉で捉える喜びがなくて、なんで短歌を作る甲斐があろうというものではないだろうか」「もともと作家自身が、「ささいなことにこだわ」って、それを輝く宝石に変える仕事の筈である。、、、小さな魔法−−−作者の手がふれる時はじめて、それをまっていたように輝き出す、それが作歌の秘密であろう」「その歌の「何もない美しさ」であろう。、、、一見、本当に何もないごとく見えるそこには、ただ光だけが充ちている、そのような歌こそ、、、真に人々の愛唱してやまぬ歌となり得る筈である」

第二次大戦中で学徒動員された世代の中井は市ヶ谷の参謀本部勤務となる。いわば戦争遂行の中枢にいながら、満たされぬ勉強意欲と反戦の日記を書き続ける。思いの丈を綴った日記では同じ年の山田風太郎日記と双璧である。多くの人は戦争の前線には喜んでいったのではない。そういう時代の空気もわかる内容だ。以下、中井の言葉から。「学生の凡ゆる希望も今ここに断たれた」「日本は愛しよう。併し今その日本を動かす資本主義と軍国主義を私は愛さない」「八月を終わる。併し食堂で昔と大差のない食事をしていると未だ未だ余裕のあることを感じる」「軍閥は、、臭気ぷんぷんたる、資本主義と手を結び、南方に帝国主義的な進駐を開始するに到った昭和十六年某日よりの行動は、革命の日もっとも指弾し全面的に責任を問ふべき醜悪なる事実である」「理念の字句の美麗さと食ふものがろくにない国民生活の惨めさとばかりが滑稽に並んでいる」「大いなる未来を思いてねむれどもさびしき星は空に光れり」「かうした無理な戦争をしている以上、、」「そこにのたうつ、ミリタリズムの上にまたがっている太った、安手なリベラリズムの親玉たち」「兵器はでたらめだし、、」「日ソ開戦。、、、かうして、日本は確実に滅びの門をくぐった。、、唯ひとつ惜しいのは、折角めざめてきた日本人自身でこの邪宗邪宗国家主義)をくつがえせないことだ」。

1971年「公評」3月号の抄録のまえがきから。「戦後二十五年を経て何より驚かされるのは、私たちいわゆる戦中派の年代が、誰も彼も屠所の羊さながら、権力の命じるまま御両親様宛の遺書をしたため、従容として死についたと思われているらしいことで、、もうそんな神話や英雄伝説が出来上がってはたまらない」「学徒出陣を国のため君のためと心底思いこんでいた人間は、まったく少数の異端者だったことをあきらかにしておかなければならない。そしてそのくせ、兵隊はいやだという発言を誰ひとりなし得なかったことも確かなので、戦中派の戦後の沈黙は、かかってその恥にあるといっていい」。

1971年「彼方より 中井英夫初期作品集」のまえがきより。「中学三年の冬に、南京陥落で祝賀の提灯行列が行われた夜、とめどもなく他人の国へ攻めこむことがなんだって祝うに値するのだろうと密かに考え始めてから、ひどい憂鬱症にかかっていた」

1971年「増補新装 彼方より」の「巻末小記」より。「世界の大勢についに一度も眼を向けず、あきらかな侵略戦争を聖戦と言い変える欺瞞に渾身の憎悪を覚えなかったのだろうか」。

人物の価値を見抜く眼力で、戦前・戦中の事態の本質を見抜いていたこのような人物がいたことに驚く。

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版