「兄弟会」あらため「お笑い会」に改名。ミュシャ展。獅子文六展。

午前:横浜そごう美術館の「ミュシャ展」。2017年に国立新美術館で「ミュシャ展」をみて、サラ・ベルナールのデザイナー作品やスラブ叙事詩という超大型作品をみている。今回は、山本冬彦さんのアドバイスどおり、展示解説は見ずに、作品だけを見て歩いた。『ミュシャ スラヴ作品集』を購入。

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昼食:四度目の兄弟会。よく笑った。「お笑い会」に改名となった。

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午後:神奈川近代文学館の「獅子文六展」。獅子文六の父は、豊前中津藩の武士、福沢の慶應義塾で学んだ後に、アメリカ留学。横浜で絹織物の貿易商として活躍した。獅子文六はよく中津に帰っている。獅子(「四四)は、文豪(五)より偉い文六という意味で獅子文六というペンネームを使った。『娘と私』『私の食べ歩き』『評伝 獅子文六』の3冊を購入した。

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「名言との対話」12月11日。チャールズ・R・ジェンキンス「今一番何を望むかと言えば、ひとみと一緒に佐渡で幸せな日々を送っていくことと、娘たちが将来あらゆる可能性を十分に生かし、幸せで充実した人生を歩んでくれることだ」

チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins、1940年2月18日 - 2017年12月11日)は、アメリカ合衆国軍人

 アメリカ陸軍の軍人ジェンキンス軍曹は1965年、ベトナム戦争行きを避けようと、南側ではなく北側に逃げた。それから40年、24歳のジェンキンス北朝鮮で地獄のような思いをすることになった。

北朝鮮では、自己批判の毎日であり、金日成主体思想の学習を強制される。士官学校での英語の授業、軍事用語の辞書編纂、英語による尋問のハンドブック作成などの携わった。ジェンキンス『告白』によれば、飢餓、栄養失調、強制労働、裁判なしの投獄や処刑と北朝鮮は地獄の様相であった。特に1990年代には北朝鮮の状況は悪化し、空腹と貧困と不衛生に悩まされた。

 一つの光明は、ミン・ヘギュンこと、曽我ひとみとの出会いである。21歳の美しい女性は、1978年に拉致されたが、日本政府は知らなかった。誰も探してくれなかったのだ。出会ってから40日後に結婚し、長女・美花、次女・リンダを生む。

横田めぐみは13歳で拉致された少女であり、ひとみとめぐみは約1年半一緒に暮らして親友になった。めぐみの娘はキム・ヘギョンと名付けられている。ジェンキンスはこの本で、めぐみさんは生きていて、軍人か工作員と結婚し、海外で生活していることもあり得ると考えている。

2002年9月17日。小泉純一郎首相の訪朝、金正日総書記との首脳会談があった。そこで存命の拉致被害者リストにたまたま曽我ひとみの名が載り拉致が明らかになった。そして曽我ひとみさんと4人の拉致被害者が帰国した。

2004年5月22日。小泉首相の再度の訪朝があり、蓮池さんら家族5人が帰国した。首相はジェンキンスとも会談し第三国で北朝鮮の家族3人と曽我ひとみが会うことになった。ジェンキンスは日本に戻るか、北朝鮮で暮らすか。どちらの場合でも、家族は一緒にいようと決意する。2か月後にインドネシアで家族が会い、日航チャーター機で帰国する。

ジェンキンスは脱走の罪で軍法会議により30日間の禁固刑が確定し、期間短縮で釈放され、ひとみさんの故郷の佐渡に到着。そして翌年には訪米しノースカロライナにいる母や家族と会っている。ひとみは佐渡市役所の保健衛生指導員、ジェンキンスは畑仕事と、史跡佐渡金山での施設管理、佐渡歴史伝説館のクッキーの売店で働く。

数奇な運命に翻弄されたジェンキンスは晩年に、妻との幸せな日々が続くこと、娘たちの幸せで充実した人生を願っている。このことは平凡なようだが、普遍性を持つ真理である。この本を書いた2005年から12年、ジェンキンスは失った人生をとり戻す生活を送ることができたのだ。しかし、いまなお取り残された人たちがいることを忘れてはならない。

告白 (角川文庫)

告白 (角川文庫)