日本近代文学館(高見順初代理事長)、喫茶「BUNDAN」。日本民芸館と旧・柳宗悦邸「柳宗悦記念室」「柳兼子記念室」。東大駒場キャンパス。

駒沢公園内にある日本近代文学館を訪問。

初代理事長・高見順(1907-1965)の銅像。文学館の起工式の翌日に死去。

高見順、小田切進ら有志の文学者・研究者が、文学資料を収集・保存する施設の必要を広く訴え、1962(昭和37)年5月、設立準備会を結成、翌1963年4月、財団法人 日本近代文学館が発足し、理事長に高見順。1965年起工式、翌日に高見順理事長死去。伊藤整理事長。1967年4月、東京都目黒区駒場に開館。2007年9月、千葉県成田市に分館を建設。資金はすべて募金によるもの。120万点の資料を収蔵。

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日本近代文学館の外観。2017年に50周年を迎えている。
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「詩のありかに触れるささやかな試み」展。

トポス「橋」「海」「道」「空」。鮎川信夫「橋上の人」をめぐって。

萩原朔太郎「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」

宮沢賢治「詩は裸神しして理論の至り得ぬサカイを探り来るそのこと決死のわざなり イデオロギーの下に詩をなすは直?粗雑の理論に屈したり」

・永瀬清子「女はぐれなければ詩はかけなかった(林芙美子「放浪記」) 女は後家になてはじめて詩を書いた(深尾須磨子「笛吹?」 女はあんぽんたんや うかりひょうたんでなければ詩を書けなかった。(永瀬清子「ぐれなければ」)

石垣りん「虹をさしている指、それがどうやら詩であるらしいということ」

 

館内の喫茶「BUNDAN」。文人に因んだ名前の商品というグッド・アイデア。相当な付加価値がついていると感心。置いてある本も厳選されている。

喫茶:私はホットコーヒー「鴎外」を飲んだ。アイスコーヒーは「芥川」。モカは「寺山(修司)」ーーふるさとの訛りなくせし友といてモカコーヒーはかしまでにかし?。「敦」(中島敦)ーーわが歌は朝の瓦斯にモカとシャワーのコーヒー煮つつよみにける歌。牛乳コーヒーは「寺田(寅彦)。

お茶・酒:ベーリング行列車の紅茶(宮沢賢治)。ドン・ザッキの烏龍茶(ドン・ザッキ。林芙美子)。谷崎潤一郎の炭酸水ペリエ芥川龍之介)。灰色のコカコーラ(中上健次)。夏目漱石のあたたかいチョコレート。堀口大学のシャンペン。坂口安吾清酒・越の露。文人に愛されたオールド・パー。太宰治のりんご酒。」

昼食:牛めし林芙美子牛めしは十銭」)。ヨロン丼(森曜子「別荘」)。そぼろカレー(宇野千代「東郷清児のカレー)。タングシチュー(太宰治「女人訓戒」)
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駒沢公園内の前田侯爵邸の洋館。内部は以前見学している。
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近くの日本民芸館も訪問。民芸館では「日本民芸館展」を開催中だった。
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幸運にも民芸館の前に建つ「旧・柳宗悦邸」の見学ができた。

柳宗悦の書斎:4万冊超の蔵書。書斎であった部屋の壁面の半分の本棚は自らデザイン。「今日空晴し又」の書。「柳宗悦記念室」には日本民芸館の設立趣意書、自筆原稿。著書などが展示。

・「柳兼子記念室」:1892年生。柳宗悦の妻。長男・宗理は工業デザイナー。次男宗玄は美術史家。四男宗民は園芸家。声楽家東京音楽学校卒。渡欧(ベルリン)。1954年国立音楽大学教授。1961年紫綬褒章。1972年芸術院会員。92歳で逝去。

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東大駒場キャンパスの「ルヴェソン・ヴェール」で昼食。首都大学東京の姉妹店。
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「名言との対話」12月21日。高橋久子「どんなに暗い夜でも明けない夜はない」

 高橋 久子(たかはし ひさこ、1927年9月21日 - 2013年12月21日)は、労働省官僚最高裁判所判事

門司高等女学校卒業後、東京大学経済学部に進学。1953年労働省に入省。労働省課長時代は雇用をめぐる男女差別の原因究明に取り組んだ。内閣審議官、労働省婦人少年局長を歴任し、1982年に退官。

婦人少年協会会長、アジア女性交流・研究フォーラム理事長、21世紀職業財団会長を務めた後、1994年に女性としては初めて「憲法の番人」と呼ばれる最高裁判所の判事に66歳で任命される。1997年定年退官。2000年、勲一等瑞宝章受章。2013年に86歳で死去。

最高裁判事時代は、1995年 に ロッキード事件、そして1993年衆議院選挙における議員定数訴訟最大2・82倍の1票の格差を合憲とした衆院定数訴訟判決で裁判長を務め違憲とする反対意見を述べた。1995年に婚外子相続差別訴訟、1996年沖縄代理署名訴訟、1997年愛媛県靖国神社玉串料訴訟などを担当した。

「明けない夜はない」は、最高裁判事就任時に受けたインタビューで紹介した座右の銘である。そして「国民に"良識"と受け入れられる仕事をしたい」と抱負を述べた。

さて、ここでは「座右の銘」そのものを掘り下げたい。中国では昔から高位の貴人は銘という器具に自分が大事にしている言葉を記して、執務の机の右側に置いていたという故事からきている。右側はもっとも信頼する補佐役を座らせる場所であり、そこに置くほどの重要な言葉を指している。自分を律する言葉をあげる場合が多いのだが、ポリシー、信条、モットー、スローガン、主義などの言葉で表現することもある。もっとも大切にするものを明らかにした「価値観」という言葉にも近いかもしれない。いずれにしても誰もが人生の暗闇を照らす松明(たいまつ)ともいえる座右の銘を持つ必要があると思う。

高橋久子のいう「暗い夜」は、男女格差の大きい暗黒の時代であろうし、その夜明けを自分が歩いていこうという決意を示しているのだろう。時代を切り拓く人は、夜明けを生きる決意に満ちた人だろう。