2019年の総括:「公人・私人・個人」

年初の計画に沿って、2019年を「公人・私人・個人」で総括する。

  • ◎公人
  • 〇専任教授から特任教授へ。

  • ・テーマは「研究」ーー「大全」と「選集」へ
  • ・多摩大総研所長。--未来教育環境研究会への道筋
  • ・「多摩大学時代の総決算」の完成と配布

  • NPO法人知的生産の技術研究会(理事長):地域知研。大阪、岡山。2018年:沖縄、九州、東北、宮島。2019年:北海道。2020年:京都。50周年行事は10月17-18日。東京は「人生100年」と「SNS」をテーマに毎月セミナーを実施
  • 〇スケジュール
  • ・月(秘書)・木(総研・リレー講座)・金(授業)
  • ・都心へ出るときに、週1-2回「地研」へ。
  • ◎私人
  • ・妻と二人の生活のリズムをつくる。
  • ・ジム(オアシス)での運動の習慣:週2回ペース
  • ・ヨガ4年目:週1回の継続「継続は力なり」「姿勢!」
  • ・テレビ体操:毎日継続
  • ・朝5時起き:ブログ1.5時間も習慣化
  • ・書斎と書庫の連携
  • ・兄弟との「お笑い会」の定期開催
  • ◎個人
  • 〇著書:6冊。
  •  ①図解スキルマスター講座(日本マンパワー
  •  ②新深真・知的生産の技術(日本地域研究所)

    新・深・真 知的生産の技術―知の巨人・梅棹忠夫に学んだ市民たちの活動と進化 (コミュニティ・ブックス)

  •  ③名経営者の言葉(日本実業出版社
  • リーダー・管理職のための 心を成長させる名経営者の言葉

  •  ④平成時代の366名言集(日本地域社会研究所
  • 平成時代の366名言集―歴史に残したい人生が豊かになる一日一言 (コミュニティ・ブックス)

  •  ⑤読書悠々(インプレスPOD)
  • 読書悠々~現代を読む~

  • ⑥ブログ・今日も生涯の一日なり2018(自費)
  • 〇ホームページ:300万ヒットを達成(3095540)
  • ブログ連続記入:5500日を達成(5572日):生誕25564日。21.8%
  • 〇note「名言との対話」:毎日書く。丸4年1464日連続を達成
  • 〇メルマガ:1200号を達成(1212号)

  • 〇インスタグラム「後ろ姿探検隊」、200本前後の写真アップ。

  • 〇人物記念館60館。900館を達成(累計917館) 
  • 〇旅行:群馬・新潟。知研(島根。北海道)
  • ポッドキャスト「ビジネスに活かす偉人の名言」:毎週1本、50本が完成

  • 梅棹忠夫著作集の8つの巻を読破

  • 〇読書:「名言との対話」を書くために250冊ほどを読了。

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「名言との対話」12月31日。渡辺はま子「一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思っています」

渡辺 はま子(わたなべ はまこ、1910年明治43年10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の歌手。

横浜生まれということで濱子という名前になった。オペラ歌手を目指し武蔵野音楽学校を卒業。1933年「ひとり静」を歌う。ハンセン病をテーマとした夏川静江朗読の1936年のNHKラジオ番組「小島の春」の主題歌「ひとり静」は、渡辺はま子が歌っている。今年山梨県春日居町の小川正子記念館を訪ねた時に知った岡山の長島愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている歌だ。 1955年代に放送された「ここに鐘がなる」という番組では、愛生園でかつて「救ライの父」・光田健輔と渡辺はま子が対談している。1938年に「愛国の花」がヒット。その後、「支那の夜」「蘇州夜曲」「何日君再来」が大ヒットする。李香蘭渡辺はま子は美人歌手の双璧だった。戦後は「桑港のチャイナタウン」、「モンテルンパの夜は更けて」などで活躍する。懐メロ番組などに出演して長く活躍を続け、1973年に紫綬褒章、1981年には勲四等宝冠章を受章した。80歳を超えるまで現役の歌手であり、歌手生活は60年を超えた。吹きこみを行った曲は1800曲に及ぶ。

懐メロ番組でときどき姿をみていた歌手だが、中田整一「モンテルンパの夜はふけて」を読んで人生航路を知った。 音楽修行の記録として日記をつける。また、敗戦の色が濃くなっていた1944年6月から11月にかけて中国大陸への従軍慰問の旅を5か月間こなしている。市販ノートに全ページを使って、ビッシリと万年筆による走り書きで従軍日記を書いている。几帳面な人柄が現れている。この日記がこの本の重要な材料となった。

敗戦の8月15日、「中国に留まって、何かの役に立ちたい」と活動を続け、大晦日に天津の日本人収容所に入り、同胞を慰問し勇気づけている。帰国後、旧軍人の慰問を開始する。そしてフィリピン、硫黄島、沖縄など激戦地への慰霊訪問。慰霊碑の建立に印税を注ぎ込んだ。

日本への感情が最悪だったフィリピンのモンテルンパ収容所のことを知る。110万人のフィリピン国民が犠牲になった。最大の激戦地となったレイテ島では日本軍の8万人が戦死した。全フィリピンで戦死した日本軍将兵は50万近くになった。フィリピンはサンフランシスコ平和会議に出席しサインをしたが、批准はしなかった。賠償問題が障害となった。

1952年12月25日、慰問のためにマニラを訪問し、戦犯刑務所の監房の中で挨拶と歌を歌った。牢獄のコンサートである。それをテープに撮った。後で家族に聞かせるためだ。1953年1月10日、ラジオ東京で録音放送され大きな反響があった。オルゴール製造会社の吉田義人とはま子の合作のオルゴールが完成する。それは任期終了まで4日しかなかったキリノ大統領の心を揺さぶり、有期・無期刑囚人の釈放、死刑囚は無期に減刑し日本へ送還された。賠償協定は昭和31年に調印された。

1957年から40年余、横浜市山手の「港の見える丘」近くに住んだ。大晦日恒例の国民的行事、NHK紅白歌合戦では、1回、2回、4回、5回、7回、8回、9回、15回に出演している。渡辺はま子の命日は12月31日の大晦日だ。今年の女性軍のMISIA、男性軍の嵐のトリの歌声を聴きながら、紅白の第1回は「桑港のチャイナ街」で紅組のトリを務めたのがこの人だったのだとの感慨にふけった。1973年の24回には特別出演、NHK衛星第2テレビジョン思い出の紅白歌合戦」で全編が再放送されている。

「歌は3分間のドラマだ。私の人生、いかに歌に助けられてきたか」という渡辺はま子は、「相手の名声や地位に驚かないこと、人は真心」の信条を持ち、「一生懸命に歌って少しでも皆さんに喜んで頂ければと思っています」という姿勢を貫いた人だ。

モンテンルパの夜はふけて ~気骨の女・渡辺はま子の生涯