私の書斎:「私をつくってきた本」と「私がつくってきた本」と「私のつくっている本」

年末に書斎をかたずけて、年始に仕事をした。私の書斎という世界の「構造と関係」はどうなっているのか。

背面の作り付けの本棚には過去に読んだ本の中で特に大事な本が並んでいる。梅棹忠夫著作集22巻、寺島実郎の単行本40冊、知的生産の技術関係の名著たち、人物論の数々、、、。これらは、「私をつくってきた本」たちだ。息子が一人立ちして出て行った後の部屋は書庫として使っている。ここにある膨大な本も私が影響をうけきた本であり、私をつくってきた本である。

右ヨコの本棚には、30年以上にわたって今まで書いてきた100冊以上の著作が並んでいる。また毎年のブログが年ごとに本の形で並んでいる。30冊以上ある。これらは「私がつくってきた本」たちだ。

背面のダンボックスには授業の資料と出版関係の資料類が並んでいる。これは取り組んでいるプロジェクトの棚である。「私のつくっている本」たちだ。

左ヨコの机には「吐鳳」(亀井南冥)の額と現在進行中の仕事の資料。前面の壁には「今日も生涯の一日なり」(福沢諭吉)の額、禅僧・仙厓の「〇△▢」の書。これも「私をつくってきた言葉」だ。

こういった本や言葉に囲まれて、ものを書いているのだと改めて思った。今年は大型の知的生産に挑んでいこう。

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梅棹忠夫著作集第5巻「比較文明」の図解化。仮図解60枚が完成。この数日間で集中したのでずいぶんと進んだ。梅棹先生の比較文明学は「構造と関係」が中心テーマだったことがよくわかった。このプロジェクトの次段階に移る。

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「名言との対話」1月5日。浜田庄司「 願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年明治27年)12月9日 - 1978年昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家

 栃木県益子の浜田庄司参考館。浜田は30歳で益子に入り20年経って50歳でほぼ完成の域に達した。3万坪の敷地の中に立つ参考館は1977年開館している。益子は浜田の理想の陶郷であった。

陶磁器、漆器、木工、金工、家具、、、など浜田が16歳から生涯にわたって蒐集したあらゆる民芸が存在している。地理的には、日本はもとより、中国、朝鮮、太平洋、中近東、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、、。歴史的には、紀元前から近現代まで。集めた生活工芸品は4千点に及ぶ。これらを人々に参考にしてもらいたいという意味で参考館と名付けた。これらの蒐集品は浜田の仕事の水準を落とさないように監視する役目も持っている。自分を感動させ、自分をはるかに超えているものに浜田は惹かれた。自分に語りかける物や自分の及ばない物に浜田は昂奮した。この参考館は訪問者や芸術家が未来を準備すること助けるためにある。浜田の方法は、「相手に聞く。土に聞き、釉に聞き、火に聞く」であった。

 浜田庄司東京高等学校窯業科で河井寛次郎と出会う。卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に就職する。知り合ったバーナード・リーチに誘われ、3年間イギリスのコーンウェルに滞在する。関東大震災で混乱の中、日本に帰り、河井宅で過ごす。当時の河井寛次郎は方向感を失っていた。京都で知り合った柳宗悦河井寛次郎浜田庄司の3人組は日本の美の新しい方向を見いだした。 英国で田舎暮らしを知った浜田は、栃木県の益子に居を構え、作家活動に入る。益子焼きは1852年大塚啓三郎によって始められた。まだ歴史は浅い。「土は粘着性と可塑性(肉体と骨格)を持ち、火に強い必要がある。一番単純な土が最良だ。」

片足を都会に置き、必要な時はいつでも都会に出て共同体の一翼を担う。そういう田舎暮らしを楽しむ生活にあこがれた。田舎に家を持ち、しかも都会の活動から切り離されずにいられる益子を選んだ。寒い季節は焼き物の伝統のある沖縄(壺屋)に、暖かい時期は益子というように往ったり来たりを考えた。健やかさと正しさを大事に考えた。そのために焼き物の伝統が生き続けている田舎に仕事を場所を探したのだ。

最初絵描きになろうと考えていた浜田は15歳で「用の美」の工芸を目指すことになった。隣に住む木村荘八の蔵書の中からルノワールの「美術志望者が少しでも工芸に進めば工芸の質が向上する」という言葉を見つけたのである。「民芸」という言葉は、1925年頃に生まれた。当時浜田は31歳あたりだ。浜田は83歳で没しているから、70年近くの年月を工芸に励んだ。その成果は、悠々たる大きさ、堂々とした形姿、地味ながらこくのある釉色、生き生きとした絵付け、温かく親しみに満ちた味わい、、という作品に結実している。志を早く立てることの成果であり、そして長く仕事をした成果でもある。「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と浜田は人生を総括している。

「良い土から悪い物をつくるよりも、劣った土で良い仕事をする方を選ぶ」という浜田庄司は「 願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」というそのままの人生を送った。願とは志のことだ。大きく高い志を立てて、自分に妥協せず、方向感を大切に歩むことが大切だであることを教えてくれる。

「近代日本の陶匠 浜田庄司」(講談社カルチャーブックス)。「浜田庄司 釜にまかせて」(日本図書センター)。「無尽蔵」(浜田庄司

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伊原宇三郎。佐和隆研。中里太郎衛門。