020-01-16 秋学期授業の最終回。ラウンジで懇談。プロジェクト。知研。立川。

・秋学期の授業の最終回。前回の「この授業を受けてどうかわりましたか?」という問いのアンケートでは、「計画を立てる」「継続する」「本を読む」が受講生全体の流れだった。今回のアンケートは「春休みの計画」を書いてもらった。計画を立ててもその通りにはいかないが、立てないよりなるかにはるかにマシだ。「計画、実行、総括」の繰り返しで少しづつ前に進む。

・昼休み:ラウンジで歓談:趙先生、久米先生、樋口先生と。

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 ・ 岩澤さん:図解の処理と文章の打ち込み。1巻、2巻、3巻。

・来週からの人と会う日程が決ってきた。

 ・高橋さん来訪

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立川:所用。

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「名言との対話」1月16日。古川ロッパ役者となりて五年目の春、いざ、はり切って進まんかな」

古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年明治36年)8月13日[1] - 1961年昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン

祖父は東京帝国大学総長をつとめた加藤弘之男爵という家系。長男以外は養子、という家訓にそって古川家の養子となる。「緑波」(リョクハ)は小学校3年時に自らつけたペンネームである。後年、舞台活動では「ロッパ」、筆名は「緑波」と使い分けた。

小倉中学、早稲田中学、早稲田第一高等学院、早稲田大学文学部と進む。中学時代から映画雑誌を刊行したり、「キネマ旬報」にも投稿、高等学院時代には「キネマ旬報」の編集同人となり、早大在学中に菊池寛の誘いで文芸春秋社に入社し、雑誌「映画時代」の編集者となる。早熟で、映画好きで、文章力があった。

宴会の余興芸がこうじて、自ら演技したものまねを「声帯模写」と命名している。菊地寛や小林一三に喜劇役者への転向を勧められ、1932年に宝塚劇場でデビュー。菊田一夫脚本の作品がヒットする。同時期に活躍したエノケンと並び「エノケン・ロッパ」と称される。エノケンの芸風と対照的な知的な雰囲気が受けた。歌手としても多くのレコードを出している。

1935年ころからは「古川緑波一座」を弾いて大いに人気を博す。特にホワイトカラーに受けた。エノケンブルーカラーに人気だった。ロッパは、座付き作者、俳優、台本作家などに一流の才能を集め名プロデューサーだった。この5年間が黄金時代だった。戦争の時代には国家の干渉を受けたが、ひるまず低級喜劇、滑稽芝居の道を歩んでいる。戦後は「ロッパ・エノケン」の合同公演などで当たりをとったが、時代の変化についていけずに人気は落ちていった。一方でラジオはもとより、黎明期にあったテレビのパイオニアとしても活躍している。

美食家・健啖家で「ロッパ食談」「悲食記」がある。読書家、日記魔でもあった。ネーミングのセンスあり。ハリきる、イカすなど造語の名人。菊池寛はクチキカンと揶揄するなどセンスは抜群。幅広い交友。麻雀やポーカー。、、、、

こうやって古川ロッパの生涯をたどると、ものすごいエネルギーの持ち主だったと感じる。あらゆる分野への旺盛な好奇心で次々にものにしていく姿は圧巻だ。

 死の直前まで休みなく書き続けた日記は「古川ロッパ昭和日記」の名で刊行されている。昭和の喜劇史、風俗史としても貴重な作品だ。ロッパ自身も戦時中には自宅消失時にも防空壕に埋めておいて難を逃れるなど大事にしていた。この点は空襲時には日記を抱えて避難していた永井荷風や、盛岡に日記を転居させていた原敬とも通じる。

古川ロッパ昭和日記』という本が4巻でている。ロッパはその日の出来事を事項別にメモしたノートに記し、その翌朝、ノート類をもとに日記に付けていた。日記の総量は400字詰め原稿用紙3万枚以上というから、本100冊分に相当する膨大な量だ。1年4冊ほどだ。1934年1月1日から死の直前の1960年12月25日までロッパの日記は、その日の行動を挙げていく。舞台の感想、新年の決意、金の苦労、食い物談義、酒バカの様子、仕事への意欲などが垣間見えて興味深い。少し読んでみよう。

「昭和八年度は、活躍開始の記憶すべき年だった。、、、「笑の王国」は、今年何うなるか、古川緑波は何うなるか、昭和九年こそ自重すべく、ます/\ハリ切るべき年である。」は、昭和9年の「前年記」。昭和十年は、浅草から丸の内へといふ、僕にとっての一大転機の年として記念すべき年であった。」は昭和11年の前年記から。

以下、昭和11年の元旦から。短い間に、役者修業もし、ショウマン的苦労もした。 すべては、これから。準備は出来た! これから出帆である。 役者となりて五年目の春、いざ、はり切って進まんかな。」「 京都の客は、女が多く、よく笑ふ。但し、ニュース的神経はなく、たゞ可笑しいものが可笑しいと云った型なり。宝塚はインテリ風、京都は一口に素直と云ふべきか――さて名古屋は何んなものか。」「ホテルへ帰り、仕事するつもりが徳山・岸井・三益乗込みで話し込んでしまひ、一時になった。それから原稿紙出して仕事にかゝる。」「昨夜はそれでも十枚ばかり書いた、ねたのは四時近い、今夜徹宵で書き上げる気だ。」

私も毎日ブログを書いているので参考になる。ロッパの日記では、必ず前年の総括をして、新年の抱負を簡潔に述べている。この点は私と同じだ。計画、実行、総括のサイクルが回っている。そして31歳の年から57歳の26年間、毎日その日その日の行動記録を日記として書き綴ったのは、自分が歴史をつくっているという意識があったからだろう。26年間というと阿久悠日記を思い出す。阿久悠も亡くなる70歳まで26年間、毎日日記を書いていた。私はまだ15年。ロッパの日記は青空文庫でも読めるので読んでみよう。