知研の八木会長と福島事務局長とミーティング。

 武蔵境駅で、知研の八木会長と福島事務局長とミーティング。引継ぎがテーマ。

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武蔵境の往復でNHKラジオアーカイブスの4回にわたる「湯川秀樹」編を聴いた。日本人初のノーベル物理学賞者という華々しい経歴の人であるが、その素顔は意外だった。子ども時代から世界的学者への道を淡々とふり返る語りだ。孤独。厭世観。人と付き合いたくない。老子荘子の徒。科学の到達点が原子力。悪魔と天使の技術。天使の向こうに悪魔がいる。人類は制御できるか。個人の話から始まって最後は科学と人間、そして原子力社会の展望までを聴いた。感性が豊かでありながら、激せず、淡々とした語り口は心に響く。半世紀ほど前の録音だが、現在を予言していることに感銘を受ける。

湯川秀樹の記念館は、大阪大学総合学術博物館湯川記念室と京都大学基礎物理学研究所湯川記念館史料室がある。今年は訪問したい。

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「名言との対話」1月18日。福原麟太郎「(随筆は)知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせることである。争うためでなく、仲よくするためである」。

福原 麟太郎(ふくはら りんたろう1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家

広島県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業後、東京高等師範学校英語科に入学し、研究科卒業。1929年、文部省在外研究員として英国のロンドン大学ケンブリッジ大学に留学。帰国後、東京文理大学助教授に就任し、1939年に教授。1940年「叡智の文学」を刊行する。日本英文学学会会長、東京教育大学文学部長を歴任し、退官後は共立女子大学教授や中央大学教授をつとめた。

1961年、「トマス・グレイ研究抄」により第十二回読売文学賞。1963年、「英文学を基盤とせる随筆一般」により日本芸術院賞。1964年、芸術院会員。1968年、文化功労者福山市名誉市民。

梅棹忠夫の「日本探検」を読んだとき、その最初が「福山誠之館」だった。福原は備後福山の藩校・福山誠之館の出身である。福山藩はペリー来航時の筆頭老中の阿部正弘らを輩出する。また黄葉夕陽村舎を率いた儒学者漢詩人、教育者であった菅茶山という大文化人も住んでいた。2018年にはこの菅茶山記念館を私も訪問したことがある。この誠之館という藩校の後継の学校は、森戸辰夫、井伏鱒二藤原弘達宮地伝三郎が出ており、加えて官界や実業界にも人材が多い。東京にも誠之舎と呼ばれた育英寄宿舎があり、福山と東京は直結していた。彼らは治国平天下意識の中央志向であったから、中央で活躍する人材を輩出したのである。その代表の一人が福原麟太郎だ。

小説家の井伏鱒二によれば「あのころ僕たちのほうでは、秀才というのは高等師範に行ったんです。僕は上級生から、この学校には麟さんという秀才がいたという話を聞かされていました」と述懐している。

『人生十二の知恵』という人生案内の作品について、本人は「この通題はまことにきまりが悪い。しかしどれにも、智恵を求めようという心持があることだけは汲んでいただきたい」として、「志」「魅力」「金銭」「失敗」など12の章で、深い学識と人生経験が温厚な語り口ににじみ出る文章を書いた。必読のエッセイといわれる。たとえば、この本には「人生全体の建築の上でいうと、何か成功で何が失敗であるかは、よく解らないものだ。人生が失敗であったとか、成功であったということに、どんな意味があるのかとも言ってみたい。死んでしまえば万事終わりで、人はその一生を、何とかして過ごしてきたということなのだ。誰も大した生き方はしていない」などがある。

福原は随筆家として高名だった。「知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせることである。争うためでなく、仲よくするためである」と言い、また「作者の肉体の臭いを出さないで、人間の臭いを嗅がせよう」とエッセイの秘訣を開陳している。随筆とは、知識をひけらかすことではなく、学識と経験に裏打ちされた叡智と、誰もが膝を打つ人情の機微の混合体をつくる作業なのだ。今日は「叡智と人情」というキーワードをもらった。

参考「梅棹忠夫著作集 7 日本研究」