「タウンマガジン なかつ」の第220号が届き故郷の様子がわかる。本日は中津の偉人・田原淳(ペースメーカーの父)の命日。

「タウンマガジン なかつ」の第220号が届く。私も紹介されている。

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以下、目についた記事。故郷の様子が少しわかる。

  • 「NHK会長に前田氏」中津出身のみずほ「FG会長。
  • 奥塚正典市長「住みたい・帰りたい・行ってみたい」まち 中津へ。2期目。
  • 中津商工会議所の仲浩会頭「全業者の力を結集・連携を」。2000社の会員。
  • 川嶌眞人氏の病院学会と、アジア太平洋潜水・高気圧環境医学会の記事。
  • 広池千九郎記念館。「家族のきずな」エッセイ入賞者表彰。1447作品の応募。
  • 「博多の歴女」として有名な白駒妃登美子氏の講演。
  • 中津市歴史博物館(なかはく)が昨年11月1日にオープン。常設展示「未来の道ーナカツビトの歩み」。
  • 自己顕示欲の旺盛な青木行雄さん。在京中津会会長、在京県人会会長。東京アサヒ会会長に。
  • 中津出身 久恒前多摩大副学長「平成時代の366名言集」を刊行。
  • 中津出身の巨人の山口俊投手が大リーグに挑戦。 --------------------- 

「名言との対話」1月18日。田原淳「坊、人間はなにか楽しみを持たんといけんな」

田原 淳(たわらすなお、たはら すなお1873年7月5日 - 1952年1月19日)は日本の病理

 田原の生家は大分県安岐町。淳は15歳で中津の医師・田原家へ養子になる。16歳で上京し、東京英語学校、独逸協会学校に学ぶ。23歳で一高を受験、首席入学、首席卒業。26歳、東京帝大医科大学に首席入学。1901年東大医学部を卒業。1903年私費でドイツ留学。マーブルク大学のアショフ教授のもとで3年4か月、病理解剖学を研究し、刺激伝導系を発見する。哺乳類緒心臓筋肉の研究で、刺激伝達系に重要な役目を持つ房室結節を発見した。心臓の刺激伝導系の存在を明らかにした。後の「田原結節」と呼ばれるようになる大発見である。

3年4か月のドイツ滞在の後、帰国した田原は35歳で九州帝大医学部病理学教室教授に就任する。1914年には学士院恩賜賞を受賞。1930年、医学部長。1932年別府市に開設された九大付属温泉医療学研究所の初代所長。1933年まで九大で教鞭をとった。

『世界の心臓学を拓いた 田原淳の生涯』の中で、中津の川嶌眞人・医療法人玄真堂川嶌整形外科病院理事長は、田原淳の業績には中津藩の蘭学と解剖学の歴史が背景にあると分析している。また池大雅の書画がある市内の自性寺には田原淳の墓と碑があることと紹介している。自性寺の「大雅堂」は見たことがあるが、次回の帰省時にはお参りすることにしよう。「ドイツのマーブルク大学には、アショフ・田原記念展示ケースがある。旧九大医学部キャンパスの東門から続く通りは「田原通り」と呼ばれていた。こういう記念のものが残っているのは、はやり偉い人だったのだ。この本では、ノーベル医学賞をもらうなら日本人では田原だろうとの記述もあった。

中津市立小幡記念図書館には「中津ゆかりの人」コーナーがある。福沢諭吉、広池千九郎、田原淳、横松宗、福永光司松下竜一が顕彰されている。田原は「ペースメーカーの父」という紹介だ。心臓伝達系の発見は20世紀の医業の一つとして讃えられ、心臓ペースメーカなどで応用されているとしている。田原以外はよく知っていたが、」今回田原について知る機会を得た。慶應義塾の塾頭をつとめた小幡篤次郎は、田原淳の保証人だったようで正月には年始に赴いている様子が「第一高等学校の日記」の1897年(明治30年)に記されている。同じ日の記述の中で、青山御所に出入りする顕官に遭遇し、「男子と生まれ出でし上は是非共その如き栄典に与りたきものにこそ」と青雲の志を述べているのも面白い。

九大医学部を出て軍医となった長男が宮城県石の金華山沖で魚雷い撃沈され死亡したとき、「人間の死は運命である。人はそのように死ぬべく定められているのだ」と死生観を披露している。晩年は中津でも過ごしていて、畑仕事が唯一の楽しみだった。その時、「坊、人間はなにか楽しみを持たんといけんな」と言われたと孫が語っている。当時としては長寿でもあった田原淳の言葉には真実がこもっているように思う。

 

田原淳の生涯