「終わった人」と「終わらざる人々」

2月刊行予定の書籍の「あとがき」を書いた。少し長いが、同じように長い「まえがき」と一連の文章にしてみた。今更だが、「まえがき」、「あとがき」には何を書くべきなのだろうか。

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  2016年に話題になった内館牧子終わった人』(講談社)を読んだ。主人公は私と同い年の団塊世代の設定である。盛岡の名門高校から東大に進み、国内トップのメガバンクに就職する。大卒男子200名の中でトップを争うが、ライバルに敗れ49歳で小さな子会社に飛ばされ、51歳で転籍となる。63歳でその子会社の専務で定年となるが、そのシーンから物語は始まる。その後の66歳までの歳月を描いた傑作だ。

  「毎日が日曜日」になって、ジムに通ったり、カルチャーセンターに顔を出したり、大学院に入ろうとしたりする。そういう生活に耐えられなくて仕事を探すが「経歴がリッパすぎて」うまくいかない。途中でずいぶんと年の離れた女性との恋愛もどき、もある。頼まれてIT企業の顧問を経て社長になるが、倒産の憂き目に遭い、個人の金融資産のほとんどを失ってしまう。結局、起業をしようとしていた妻とはおかしくなる。それを救ったのは「故郷」だ。友人たち、お袋、自然、、、。最終場面で、郷里の自宅で89歳のお袋が主人公に、何歳になったのかと尋ねるシーンがある。「俺は66だ」と答えると、お袋は「66か、良塩梅な年頃だな。これからなってもできるべよ」と答えを返してくる。「終わった人どころか、「明日がある人」なのだ。「終わった人」は、実は今からの人であった、という救いのある物語だった。

  この主人公のお袋と同い年で九州に1人住む92歳の私の母も、「60代、70代は若いよ、いいよ」といつも言っているのを思い出した。母も熟年期の最後にあり、これから大人期を生きる人なのだ。

 内舘牧子はこの書をすべての読者の遙に仰ぐ故郷の山河に捧ぐとしているが、成仏できないでいる団塊世代を中心に大きな影響を与える本だ。最近会う友人たちに『終わった人』を薦めると、イナな顔をする。とにかく読んでみたらと言っているが、読んだだろうか。

 私も2020年1月に70歳となった。いわゆる古稀である。昨年の夏から秋にかけて、中学、高校の古稀同窓会があり、懐かしい人たちと再会した。10年前の高校の還暦同窓会では、現役引退前後の人が多く、今「終わった人」感にあふれていた。まだ余熱があった。現在完了形の同窓会だった。

 10年後の今回は、「終わった人」感が増していた。古稀とは中国の唐時代の詩人・杜甫の「酒債は尋常幾処に有り 人生七十古来稀なり」が出典だ。酒代の付けはいたるところにあるが、70歳まで生きた人は昔から稀である。孔子と同様にここでも中国の影響がある。今は稀でも何でもない、それなのに古稀という言葉に圧迫されて将来の可能性を自ら摘み取っているのではないだろうか。

 そういえば、50歳あたりで開いた中学の同窓会では仙台という一番遠方から駆けつけたということで挨拶を頼まれた。この時には「人生80年時代」をテーマとした簡単な挨拶をした記憶がある。今回の中学同窓会でも挨拶をする羽目になり、「人生100年時代」を話題にした短い挨拶をした。この20年で人生が20年延びているのだ。これには自分でも驚いてしまった。

  この本で紹介した人たちは、ほとんどの人が90代半ばから112までの、「大人期」まで活躍した人である。『終わった人』の主人公が66歳から新たな道を歩こうとするのだが、それから実年期、熟年期があり、短くても30年、長い場合は50年近くの人生が待っていることになる。この本で紹介した人たちは、誰も自分を「終わった人と」とは考えていない。余生などという言葉はとんでもないという人たちだ。こういう人生100年時代のモデルには読者も励まされたのではないか。私自身、この本を書きながら、勇気が湧いてくるのを感じていた。

  内村鑑三は『後世への最大遺物』という書(講演録)で、「人は人生で「何を遺すか」という問いを発している。そして、金を遺すか、事業を遺すか、思想を遺すかといい、いずれも才能が必要であり、そうでない人は、「高尚なる生涯」を遺せといった。真面目なる生涯を送り、あの人は偉かったという印象と影響を周りに人に与えることがいいという結論であった。

 「最大遺物とは何であるか。、、人間が後世に遺すことにできる、ソウして誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるか。それは「勇ましい高尚なる生涯」であると思います。」「私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。、、、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。、、著述をするということと学生を教えるということであります。」   「、、来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少なくとも幾何の遺物を貯えておきたい。、、、この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯はけっして五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺に植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います。」「アノ人はこの世に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。」

  さて、この本で紹介した「大人期」まで生きた人たちは、「終わった人」とは思わなかった人たちだ。「終わらざる人々」である。私たちも後に続く世代、後輩たちに参考になるような生き方をしたいものだ。人生の後半は、余生ではない。人生の本番である。

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大学

・杉田副学長

・秘書とスケジュール調整

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二日続けてジムでストレッチとウオーキング

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「名言との対話」1月20日男女ノ川 登三「この丸からワシを押し出したら賞金を出すぞ」

男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現:茨城県つくば市磯部)出身の元大相撲力士

地元の相撲大会に出場していきなり優勝し、怪力を認められて力士を志すようになり、高砂部屋に入門した。男女ノ川という不思議な「しこ名」は出身地を詠んだ百人一首の「筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」(陽成院)の歌にちなんだものだ。193センチの巨漢だった。平幕と関脇時代に2度優勝している。1936年の5月場所で横綱に昇進。1938年5月場所では、休みなく出場しながら負け越すという前代未聞の不名誉な記録を残した。仁王様のような容貌魁偉の巨漢であったが、「史上最弱の横綱」とも呼ばれていた。1952年引退。

小説『下足番になった横綱』では、「奇行の人」の行状がわかる。自動車(ダットサン)通勤や自転車での場所入りで話題になった。横綱時代には早稲田大学の聴講生となっている。引退後に初の一代年となってすぐに廃業。戦後は寄衆議院選挙への立候補と惨敗、私立探偵としては体が大きすぎて失敗。保険外交員もうまくいかない。国際映画俳優になろうとし、ジョン・ウェイン主演の「タウンゼント・ハリス物語」に「大男」役で出演し不発。真偽は不明だが、最後は料理店の下足番として生涯を終えているとなっている。そういうことがあっても不思議ではないと思わせる波乱万丈の生涯だった。横綱まではりながら問題を起こした人として、私が思い出すのは、輪島と北尾(双羽黒)だ。輪島は部屋をつぶし、北尾は横綱のまま廃業の憂き目にあっている。その前例が男女ノ川だった。享年は67という長寿横綱だった。

同時代の横綱には69連勝の第32代目横綱双葉山がいた。双葉山の故郷の宇佐市の市民図書館の「郷土スペース月報」(2003年)に、第31代の男女ノ川双葉山が並んでいる写真が載っているのを見つけた。昭和2年初土俵の双葉は五尺八寸、昭和3年初土俵男女ノ川は六尺四寸とある。この双葉山には横綱時代はまったく歯が立たずに連敗を続けている。神の如き双葉山との対比もあり、それだけに奇行が目立った面もある。男女ノ川は稽古場で土俵に丸を描き、「この丸から押し出したら賞金を出すぞ」と言って稽古をつけた。簡単に押し出され、すぐに金がなくなったというエピソードもある。この人らしく生きたというほかはない。