帝国デーバンクの創業者・後藤武夫「現地現認」

帝国データバンク史料館を訪問。市ヶ谷の防衛省の向かい側の10階建てのビルが帝国データバンク本社ビルだ。そのビルの9階に帝国データバンク史料室がある。

帝国データバンクは企業情報を扱う企業と漠然とは知っていたが、今回この企業や業界の歴史と現在の姿を、よく整理された情報と最新の動画情報などで知ることができた。

「信用調査業」の始まりは1810年のイギリスのペリー社から始まる。もう200年以上になる業界だ。産業革命で経済取引が盛んになり、当事者による信用調査の限界を補うことが必要となった。

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日本では19世紀の末に大阪で外山脩造の商業興信所、東京の渋沢栄一らによる東京興信所ができ、そして1900年には後藤武夫が民間で初めて帝国興信所(後の帝国データバンク)を設立した。九州福岡県の久留米出身の後藤は、福岡中学、東京英語学校、同志社などを経て、故郷で代用教員をする。21歳で結婚。1894年の日清戦争での友人の死で目覚め、大阪の関西法律学校に入学しトップクラスで卒業。福岡日日新聞記者を経て1898年、28歳で上京。母校の関西法律学校(後の関西大学)出身者と同郷の九州出身者の支援を得て1900年、30歳で起業した。1920年代の後半には、3大興信所の一角に食い込んだ。

3つの方針:「脱俗」。もっともすぐれたという意味。「至誠努力」。詐欺師から守るためにひたすら努力せよ。「大家族主義」。そして「現地現認」が原則で、現在に赴き自分の目と肌で確認することを徹底した。

 1929年の雑誌「講談倶楽部」で「全国金満家大番附」のデータ調査を請け負っている。8ヶ月、2000名を動員した。それによると、横綱は三井八郎衛門と岩崎久弥、大関以下は住友、安田、大倉らの4大財閥が並んでいる。

大正から昭和にかけて、帝国興信所は北は樺太(サハリン)から中国、韓国、そして南は台湾まで29の海外支所を展開していた。

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この会社に関係した人々を展示していた。山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所で過ごしている。頭山満は創業者・後藤武夫の人力車夫時代の贔屓の客だ。桃中軒雲右衛門とは兄弟分の盃を交わした仲だ。徳富蘇峰与謝野晶子直木三十五は機関誌「日本魂」に寄稿している。三島由紀夫は「豊穣の海」の第4部「天人五衰」のために綿密な取材をしている。

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 周年行事のための印刷物も業務内容の一つ。「広報誌型企業史制作」。A4で36pで150万円、6か月、500部。今年2020年で創立400年は鳴子温泉ホテルと虎屋本舗。130年はクボタとイトーキ、120年はいなげや、日新製粉グループ。110年は日立製作所不二家。100年はマツダスタンレー電気、イトーヨーカ堂リンナイキーコーヒーとなっていた。

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 個人の身元や経歴は「日本紳士録」や「人事興信録」がある。企業については「帝国信用録」「帝国銀行会社要録」などをこの会社が発行してきた。

企業活動にとって「倒産情報」は貴重だ。直接の取引先はもちろん、その先の関係企業も破綻する恐れも出てくるからだ。一刻も早い情報が企業の命運を左右する。

 「TDB24時」というビデオがよくできていた。8⑶カ所の拠点。海外はニューヨークとソウル。企業価値の評価モデル。「倒産速報」で社会に貢献。法務経。コンサル。電子化。ネットショッピング時代。個人向け企業情報サービス。データベース事業コスモス。人事調査の廃止。1980年代以降は総合情報サービス業へ。1000人超の調査員。110万件の調査。

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「名言との対話」1月26日。佐々木象堂「瑞鳥」

佐々木象堂(1882年3月14日〜1961年1月26日)は、鋳金作家。

佐々木象堂は本名は「佐々木文蔵」。1882年佐渡佐和田町に生まれ、貧しい家庭に育ち、11歳の頃から奉公し高等学校を卒業。画家を志したが、極度の近視のため画家として立っていくことを諦め、佐渡へ帰郷。帰郷した象堂は20歳の初夏、初代鋳金家 宮田藍堂の門に入り、名を『象堂』と名乗って鋳金家への道を志す。ろう型鋳金の修行6年、師の許しを得て独立自営するようになり、数々の素晴らしい作品を残した。晩年、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受け、1961年80歳で死去した。

 ろう型鋳金は、柔軟な性の高い「ロウ」を材料に使い、自由に造形できるのが特徴だ。工程をなぞると、ロウを竹べらや手先で細工して原型をつくる、鉱物用の真土で包み込む、高温で焼き上げてロウを鋳型から流出させる、その空洞に溶解した金属を流し込む。それで完成だ。

 私は佐渡には旅行したことがない。時折、調べている人物や知り合いが佐渡出身と聞くことがあり、また流人、金山などの歴史にも興味がある。今回、佐渡に関係する人物を少し調べてみた。政治家の有田八郎。思想家の北一輝。医学者の司馬凌海。出雲の阿国。そして知り合いの教育社会学者の竹内洋、、、。この島には旅をして、佐渡歴史伝説館と併設の佐々木象堂記念館にも足を運びたい。

吉事の前兆を示唆するとされる気象品物事象などがある。たとえば、竜、鳳、麒麟鶴、亀、甘露、彩雲、新星、玉など。この中での代表の一つは「鳳凰」だ。中国では、聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされる。孔雀に似た想像上の瑞鳥である。雄を「鳳)」、雌を「凰)」という。その鳳凰を佐々木がロウでつくった幸運を招く「鳳凰」をデザインしたのが佐々木象堂の「瑞鳥」である。1958年の日本工芸展で最高賞を受賞したこの代表作は、皇居の新宮殿造営にあたり、棟飾りのデザインに採用されている。NHK大河ドラマの「麒麟がくる」の麒麟も瑞兆の一つだ。

私の子どもの頃、九州の実家の客間に2つの額がかかっていた。南には「吐鳳」(とほう)という亀井南冥(陳人)の見事な書があり、北には頭山満の大きな書があった。大学生の頃、父親に「吐鳳」とはどういう意味か、と聞いたことがある。「鳳(おおとり)を吐くという意味だ。中国の偉い文人がなかなか文章が書けなくて困っていたら、明け方に口から鳳が飛び立つ夢を見たという。そうしたら翌朝文章がスラスラ書けた、という故事からきている」との回答だった。文章を書く人に「吐鳳」という文字は縁起がいいというので、いずれ私の号にしようと思ったことがある。
この亀井南冥は江戸時代の儒者筑前福岡藩医、甘とう館総裁。門下に日田の広瀬淡窓がいる。北の果てに数千里ものからだを持つ「こん」という魚がおり、一旦海を飛びたてば、まるで大空をおおう雲のような数千里もの羽をした鳳に姿を変え、南の果ての海まで天を翔ける。「燕雀(ツバメ・スズメ)安んぞ鴻鵠の志を知らんや」という諺の「鴻」(オオトリ)が鳳のことだ。大鵬も同じ意味である。「鵠」はコウノトリで大きな鳥。史記に出てくる。鳳凰は優れた天使が世に現れる兆しを示す空想の高貴な瑞鳥である。帝王の善政を称え天下の泰平をもたらす瑞鳥。鳥の王。蛇、魚、亀、鶏、龍などを組み合わせ。五彩を備えている。

父が亡くなくなり13回忌になった年に、母に頼んで表装をしてもらった額が届いた。開けてみるとなかなかいいものに仕上がっていた。書斎でこの書を眺めてみると、実家の座敷と父の思い出が甦ってくる。