高崎山ーー「餌付け」成功の意味

今年になって「梅棹忠夫著作集」の第7巻を毎日少しづつ読んでいる。「日本探検」の項の福山誠之館、大本教、北海道独立論を読み継いで、本日は長い論稿の「高崎山」を読了した。

西洋の自然観では人間と動物の断絶感があり、進化論が生まれた。日本では人間と動物の間には連続的自然観があり、進化論は不必要だった。研究者はサルとの人間関係をつくる。猿に固体番号ではなく、名前をつける。そして日本での高崎山などでの「餌づけ」というとほうもない成功は、親近感の延長にある世界的な業績である。この発端は大分市長の上田保である。アイデア市長として有名だった上田保が奇想天外のプランを考えついたのである。子どもの頃、よく行った楽天地と高崎山にはこういう場所だったのは知らなかった。上田 保(うえだ たもつ、1894年明治27年)8月25日 - 1980年昭和55年)6月6日)は、日本の元弁護士政治家で、第3代大分市長(在任:1947年(昭和22年)4月7日 - 1963年(昭和38年)3月9日)。

こうやってみると、製造工場でロボットに「、、ちゃん」などの名前をつけて擬人化するという日本的なやり方に目が向いてくる。自然の一部としてロボットを受け入れていく態度も、この延長線上にあると考えることができるように思う。

次は「名神高速道路」と「出雲大社」を読んでいく。

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今日は昼頃に豊洲の娘を訪ねた。京王線有楽町線でのマスク直用率は、半分を超えている。報道によってこの率はさらに高まっていくだろう。

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「名言との対話」2月1日。三島弥彦「相手が速くなければ決して好いレコードは出来るもんじゃ無いよ。僕は未だ一度も必死になって駆けた事が無い。是非一度敗れて見たいと思っている」

三島 弥彦(みしま やひこ、1886年明治19年)2月23日 - 1954年昭和29年)2月1日)は、明治期の陸上選手。

父・三島通庸薩摩藩士の家柄で、警視総監で子爵。兄・弥太郎は横浜正金銀行から日銀総裁になった。大山巌の娘と結婚、離縁し、徳富蘆花の「不如帰」のモデルとなった。三島弥彦は、学習院を経て東京帝大法科に入学。卒業後は横浜正金銀行に入行。サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、上海、青島などの支店を経て、バタビヤ支店支配人として終えている。

弥太郎の弟・弥彦は「超」がつくスポーツ万能の運動選手で、学習院時代には「所謂三島時代」という言葉があるほど、柔道、水泳、ボート、スケート、サーフィン、ランニング、当時は塁球と呼ばれた野球などで大活躍した。高校時代には、100ヤード、22y、400y、660y、1000yなどほとんどのランニング協議の大会で1位を獲得している。本格的なトレーニングをせず、素質だけで無敵の選手だった。

東京帝大は官立の高校からでないと入学できなった。定員が不足してときには学習院からも入れた。その後、定員を超過する時代になると京都帝大などに行く人が出てくる3歳下の木戸幸一近衛文麿が京都に進学しているのはこういった事情であった。弥彦は無試験で進学できた最後の世代だった。

東京帝大時代の「三島弥彦日記」には、天気、起床から就寝までの行動の日誌で、短いのは「晴。終日家にをりて、憲法を見る。一時に床につく」などほんの一行から、長いものでも200字ほどである。文学青年ならば、内面をのぞく長いものになるだろうが、スポーツマンはあっさりしている。

三島弥彦 伝記と資料』によれば、弥彦は身長175センチの偉丈夫だった。薩摩の西郷隆盛大久保利通は180センチあったとある。因みに西郷との江戸城開城を談判した勝海舟は156-7センチだったはずだ。

「体力のみならず精神修養の方面にも有効である、、、」と信じる弥彦は東京帝大時代の100メートル競走では12秒ぎりぎりのタイムで選ばれた。1912年のオリンピック・ストックホルム大会で日の丸を持つ旗手、マラソンの金栗が「NIPPON」という木の札を持って二人だけで入場式にでた。弥彦のユニフォームとスパイクは秩父宮記念スポーツ博物館に所蔵されている。写真でみるといかにも粗末な感じがする。このあたりはNHK大河ドラマ「韋駄天」でよく知っているシーンだ。

弥彦は10秒3/5の世界記録を持つ選手と並んで100mを走った。スタートではt飛び出し、前半はトップで走り「こりゃ勝てる」と思った。しかし後半になると抜かれてしまう。弥彦は自分たちのやっているのは「カケッコ」で、外国選手は「レース」だと気づく。オリンピックの様子を知らせた絵ハガキには「競争はとうとう敗けてしまいました。米国の人が殆ど走リこでは皆勝ちました」と書いてある。本人の意識では「走りっこ」だったのだ。

国内では無敵であり、「一度敗れてみたい」と真摯に語った弥彦は、世界に出て圧倒的な差で敗れた。この後、日本は国力の伸長に沿って、スポーツでも国威を発揚していく。そのハシリを受け持ったのが三島弥彦金栗四三だったのである。「運動の盛衰も、やはりその国力国勢に比例して居るやうに思はれます」と弥彦がいうとおり、日本の運動は、オリンピックに参加を続ける中で、体育からスポーツへと変貌を遂げていった。

日本初のオリンピック代表選手 三島弥彦 -伝記と史料ー (尚友ブックレット34)