東京の企業ミュージアム

 今年訪問した帝国データバンク史料館、日本銀行金融研究所貨幣博物館がなかなか良かった。そして過去に訪ねた京都の島津創業記念資料館、下丸子の五十嵐健治洗濯資料館、函館の男爵資料館、大阪の松下電器歴史館、神戸灘の白鶴酒造資料館なども、よく考えれば企業ミュージアムだった。すべて面白く、かつ創業の精神に満ちた空間だった。

以下、近々、訪ねることにしたい企業ミュージアムをピックアップ。企業と業界の中身もそうだが、「人物記念館の旅」のニューバージョンとして創業者を中心に見てきたい。

不動前の日本酸素記念館。日本橋の富士銀行資料館。鐘ヶ淵の軟式野球資料室。錦糸町の綜警記念館。東向島東武博物館。大鳥居のワタミ夢ストリート。

浅草の太鼓館、日本玩具資料館。世界のカバン館。渋谷のたばこと塩の博物館。神保町の奥野かるた店カルタ館。大泉学園東映アニメーションミュージアム。高輪のニンテンドウ漢方ミュージアム学芸大の特殊印刷工業写真資料館。両国の桐の博物館。新小岩のセキグチ・ドールハウス。浜町のボタンの博物館。

ーーーーー

梅棹忠夫著作集第7巻の「日本探検」の章の「名神高速道路」を読了。建設の論理と存在の論理との交錯。未来と過去との相克。欧州は車道、日本は歩道。1960年時点での論稿であるため、「わたしの、この文章だって、あほらしくてよめたものではなくなるにちがいない。しかし、いまはちがうのである」と述べているのは、60年後の今の読者をも意識していておかしくなる。次は「出雲大社」。

・新刊本の校正

 ・ヨガ1時間。ジム1.5時間(ウオーキングは45分4.5キロ)。

・夜は日本未来学会のZOOM理事会。出遅れてしまったので、聞き役に。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「名言との対話」2月4日。山本為三郎「その人になりきってしまって、その人が怒るときには私も怒り、その人が泣くときは私もまた泣いて、ものを考えているのである」

山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年明治26)4月24日 - 1966年昭和41)2月4日)は、実業家

大阪市中央区船場生まれ。朝日麦酒(現、アサヒビール)初代社長。新大阪ホテル大阪ロイヤルホテルを設立。「ビール王」、「ホテル王」と呼ばれた。

東武グループを一代で築いた若い頃の根津嘉一郎のビール会社と山本の父の代からのびん会社との合併で粘ったあげく、根津は「君の若さを買ってやるんだ」と折れてユニオンビールが誕生する。これが縁で、山本は豪放かつ細心の人・根津嘉一郎に師事していく。日本、札幌、朝日が合併した大日本ビールとユニオンビールが後に誕生する。戦後、その会社は朝日ビールとと日本ビールに分離する。山本はその朝日ビールの初代社長になった。

 山本為三郎は、実業家として一家をなしたが、根津美術館につながる美術品収集などに情熱を注いだ根津の指導もあり、本業以外にも、ロータリクラブの活動などで人生修行をしていく。山本は大阪ロイヤル・ホテル(現在のリーガロイヤルホテル大阪)の設立にも心血を注ぎ、ホテルのメインバー「リーチ・バー」はバーナド・リーチと相談してつくった。「用の美」を味わうことができるバーとして現在も健在だ。山本為三郎は文化芸術活動家としても、柳宗悦らが取り組んだ民芸運動の支援者となるなど後世に名を刻んでいる。

2011年に秀吉が光秀軍を破った京都と大阪の間の山崎を訪問した。山崎の戦いの天王山の入り口付近にあるアサヒビール大山崎山荘美術館が目的だった。この美術館は、大阪の実業家加賀正太郎(1888-1954)がつくったイギリスチューダー様式の洋館で、ウィンザー城から眺めるテムズ川を彷彿とさせる景色である。加賀正太郎の建設した大山崎山荘は荒れていたのだが、加賀は死の直前にニッカの株を朝日麦酒の山本為三郎社長に譲っている。この縁でアサヒビールが美術館として復元し再生した。同時に安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」が隣接してつくられている。この美術館には河井寛次郎、濱田正司、バーナードリーチ、芹沢硑介らの作品が1000点ある山本コレクションで構成されている。

 冒頭の言葉には「ただ、その人と私の違いは、私には感情や憎悪や利害関係がないということで、そういったものを取り除いて考えると、大抵のことはスムーズに解決できるものだ」が続く。同じ感情を抱きながら、冷静な理性で物事を解決していく山本為三郎は多くの人から信頼されたに違いない。その精神は山本家の再興を担った祖母からの絶え間ない薫陶のおかげであると後に述懐している。山形の阿部次郎兄弟もそうだが、偉いおばあさんが、孫を熱心に教育して偉人を作り出すことがよくある。その好例である。

 

私の履歴書―昭和の経営者群像〈3〉