関係学。関係のマネジメント。

 「致知」3月号が届いたので、ぱらぱらと読んでみる。

最近はいつも誰が何を言っているかにアンテナが立っている。君原健二「一つのことに十年間、一所懸命に頑張れば相当大きな成果が出せる」。坂本博之「一瞬懸命」。相田みつを:本の字「本人本当本物 本心本気本音 本番本腰 本質本性 本覚本領 本の字のつくものはいい 本の字でゆこう いつでもどこでも 何をやるにも みつを」。坂村真民「こつこつ こつこつ 書いてゆこう こつこつ こつこつ歩いてゆこう こつこつ こつこつ 掘り下げてゆこう」。千葉真知子「絶対にできる、絶対に諦めちゃ駄目」。山井太「アウトドアとは何か。人間の回復である。アーバンアウトドア」

人から受けた言葉が、人に深く長く影響を与えることも多い。高岡慎一郎「ゆっくり行く者は無事に行く 無事に行く者は遠くまで行く」(西洋の諺)。杉本雄「常に周りから注目される新しい料理を創り、発信していかなければいけない」(アレノ氏)。出口美保「芸有りて人と成り 人有りて芸を成す」(菅美沙緒)。

人が語った言葉にヒントを得たり、自分の考えが立ち上がってくることもある。鈴木秀子「私たちの毎日は様々な関係性によって成り立っています。まずは自分自身との関係、次に他の人との関係、さらにいえば大自然や人間を超える存在との関係という、大きく三つの関係性の中で毎日を生きています」。

私達は濃淡のある様々な関係を多くの人々と持っている。太い関係、細い関係、切れたままの関係、再びつながる関係、、、。そういった関係の糸の中に浮かんでいる。切れたり、つながったりしながら、全体としてはバランスをとって空中に浮かんでいるというイメージだ。世の中の事象はすべて関係にあるともいえる。関係のマネジメントが重要だ。いわば「関係学」である。

また、鈴木秀子のいう自分自身との関係とは、人間の内面を掘り下げる人文科学の分野だろう。他の人との関係とは、自分をめぐる社会との関係を考える社会科学の分野だ。そして人間と自然との関係を考えるのが自然科学ということになる。だから私たちは3つの分野をバランスよく学ばなけれが、自分や人間についてよくわからない。人文、社会、自然という3つの科学の関係は、このように理解すれば理解できる。この3つは並列に並んでいるのではなく、人間を中心に立体的に組み上がっているのだ。これも関係学の一つだ。

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昼休み

・多摩大総研のミーティング

・けやき出版の社長と二人の編集者が見える。「多摩人物紀行」。長島先生と松本先生も同席。

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「名言との対話」2月5日。安宅弥吉「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」

安宅 弥吉(あたか やきち、1873年4月25日 - 1949年2月5日)は、石川県金沢市生まれの実業家

安宅弥吉は安宅産業創業者であり、また学校法人甲南女子学園の創設者であり、そして大阪商工会議所の会頭もつとめた。

同じ金沢の金石生まれで、幕末に加賀藩で活躍し藩の財政に大きな貢献をした豪商の銭屋五兵衛江の伝記を読み、大商人になろうと考えた。16歳で上京した安宅は東京高等商業(一橋大)へ進学する。東京本郷にあった石川県出身者のための久徴館で、鈴木梅太郎(のちの大拙)と出会う。「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束したとされる。「君は学問の道を貫き給え、私は商売に専念して一生、君を支える」と言ったという資料もある。弥吉は大拙より3つ年下だったから、「君」の方が正しいかもしれない。あるいはこのエピソードは後の語り草だったから、違う表現だったかも知れない。誰が語ったかにもよるだろう。いずれにせよ、安宅は世界的禅学者となる大拙に生涯にわたって資金援助を行っているのがすごい。「世人の信を受くるべし」と言った銭屋五兵衛の言の通りの生き方のように思える。

大拙の根拠地となった松ヶ丘文庫の設立にも尽力した。文庫の入り口には、「自庵」(安宅の居士号)と題した頌徳碑があり、「財団法人松ヶ岡文庫設立の基礎は君の援助によるもの」と刻まれている。君とは十大商社の一角を占めた安宅産業創業者の安宅弥吉である。居士号とは在家でありながら優れた仏教修行者に与えれれる号で、大拙も居士号であり、その親友・西田幾多郎は寸心である。

商売については、安宅は若者たちに「いつもはヘイヘイ言っているが、ここというところでガンとやっつける。君たちのやり方はガンガンガンのヘイで、これはあかん」と語っている。ヘイとは相手の言い分を聞き入れることで、ガンとは自身の主張を通すことだ。安宅のやり方は「世の中すべてヘイ、ヘイ、ヘイのガンでやれ」であった。相手に大きく譲りながら、自分の言い分を通していくのが商売の極意ということだろう。

安宅弥吉の死から四半世紀たって安宅産業は経営危機に陥り、1977年に伊藤忠商事救済合併されてしまう。私も就職して数年たったころであり、日本中が大騒ぎになったことを覚えている。その時、初めて安宅弥吉の名前を知った。これを知ったら弥吉は無念に思っただろう。今でも残っているのは息子の安宅英一がつくりあげた美術品の「安宅コレクション」だ。今は大阪市立東洋陶磁器美術館になっている。音楽分野にも若い音楽家を顕彰する「安宅賞」があり、中村紘子などの多くの才能が、この賞を受けて巣立っている。安宅弥吉は、文化と学校を遺したことになるともいえる。

鎌倉の東慶寺には、安宅弥吉、鈴木大拙西田幾多郎、そして大拙を師と仰いだ出光佐三も眠っている。松ヶ丘文庫と東慶寺は訪問しなければならない。