カルタ館。弁護士事務所。出版社。

神保町の奥野かるた店。

2階の「小さなカルタ館」を訪問。月曜日は休館だったが、残念な顔をしていると、特別に入れてくれた。感謝。企業ミュージアム訪問の一環。

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初代?

二代目?

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四谷の玉木弁護士事務所。

一般社団法人の再建がテーマ。

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荻窪の出版社。

3月刊行の新刊のゲラの最終版を入手。木曜日までに修正の要あり。

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「名言との対話」2月10日。安部磯雄「知識は学習から、人格はスポーツから」

安部 磯雄(あべ いそお、1865年3月1日元治2年2月4日) -  1949年(昭和24年)2月10日)は、社会主義者。

父は福岡藩士。同志社に学び新島襄から洗礼を受ける。1891年よりアメリカ及びドイツに留学。同志社、そして東京専門学校(後の早稲田大学)で教鞭をとった。1900年幸徳秋水らと社会主義研究会、1901年片山潜らと社会民主党を結成し、日露戦争では非戦論を唱えた。1928年第1回普通選挙で当選、翌年には社会民衆党結成し委員長に就任した。 1940年の斎藤隆夫の有名な反軍演説による議員除名問題に際して、欠席して反対の意思を示すと、社会大衆党の党首の地位を追われ、議員除名となった。

このような社会主義者としての安部磯雄の名前は知っていたが、もう一つの「日本野球の父」「学生野球の父」という顔は私は今まで知らなかった。

早稲田大学教授時代に野球部を創設者する。1904年に創部4年目の早大野球部は一高、慶応、学習院の強豪を破り全勝優勝する。その褒美で約束どおり、大隈重信総長を説得しアメリカ遠征を行った。試合に臨む態度が立派でアメリカ人から称賛を受けている。この遠征が日本の学生野球にもたらした影響は極めて大きいものがあった。体育部長に専任した一時期を除き、1926年まで約四半世紀にわたり、部長として野球部の発展に尽力した。他には競争部長、交響楽団初代部長、図書館館長などを務めた。1903年から始まった早慶戦、1925年の東京6大学連盟の成立などにも関与している。

1911年には嘉納治五郎らと大日本体育協会(体協、現在の日本スポーツ協会)設立している。嘉納治五郎を助けて1912年のストックホルム五輪の国内委員も務めた。早大野球部の練習グランドの東伏見野球場は、安部生誕150年を記念して、安部磯雄記念球場と命名されている。安部の功績が偉大だったことがわかる。

安部磯雄は野球論「野球の三徳」の中で、「野球選手に精神修養の大切なる事を話して置いた」と述べ、要点は二つとした。「第一は競技中最後に至るまで同一の熱心を以て戦ふべきこと」、「第二は勝負に余り重きを置かぬこと」である。卒業後は人生という名の試合に立ち向かう選手に、最善を尽くし、難局にも平常心を保ち生き抜いてほしいという趣旨であった。安部にとって野球を代表とするスポーツは、若人の人格形成の要であるとの考えだった。その精神が、アメリカ遠征でアメリカ人を感激させた選手の態度の源であり、今に続く学生野球の神髄に影響を与えているのだ。「知育・徳育・体育」が教育の三本柱と言われるが、知育(アタマ)は学習、そして体育(カラダ)を通じた徳育(ココロ)もスポーツで涵養しようというのが、安部の考えだったのだろう。安部の持ち込む難題を支持した大隈重信総長も、参加することに意義があるとしたオリンピックの精神を体現していた嘉納治五郎も、安部の思想に共鳴したのであろう。安部磯雄は黎明期の日本社会主義のリーダーであったが、「学生野球の父」としても多くの人に多大な影響を与えた。今もその影響は続いている。

 

 

 

 

 

「野球害毒論」なるものを唱える一群もあった。明治44年(1911)8月から9月にかけては、新聞紙上で、新渡戸稲造乃木希典らが野球は社会に害をもたらすとして批判した。背景には、学生やファンがあまりに野球に熱中し過ぎたことがあっ