「カルタ館」ーーたかがカルタ、されどカルタ

企業ミュージアム訪問の第3弾で、神保町の奥野かるた店「カルタ館」を訪ねた。

1階がかるた店。2階がカルタ館。カルタの世界がこれほどまでに広く、深いとはおもっていなかった。カルタを巡る歴史と地理、過去と現在がよくわかる優れたミュージアムだ。

カルタ館をつくったのは奥野一香商店2代目の奥野伸夫だ。「遊びのよろこびと皆さまとの、出会いの道しるべとなれることを願っております」ということで作ったスペースだ。2009年にオープンしている。

カルタの起源は、古代エジプト、中国説。それが欧州に伝わり、南蛮貿易で日本へ。平安時代には貴族たちは貝の内側に絵と文字を描いたものを持ちるいることもあり、それは「貝おおい」、「貝合わせ」と呼ばれた。今でいう神経衰弱だ。

1543年の種子島への鉄砲伝来が契機となって、1573年から91年、船員たちのカードゲームが日本に入った。日本の伝統的な貝合わせとポルトガルのカードゲームが融合して、現在のカルタになった。三池住貞次(ミイケジュウサダツグ)たちが日本で初めてつくり始め、天正カルタと呼ばれ、「よきものは三池」と重宝された。三池地方に住む貞次という人なのだろうか。

カルタはかけ事として面白く人々は熱中したようだ。1597年、長曾我部元親家中の士分に禁止令がでる。1618年、佐竹藩江戸詰侍8名が江戸城中でのカルタが重役に見つかり追放される。1640年、オランダ商館長・カロンが閣老の牧野内匠頭信成から調達の依頼を受ける。1648年、かるた禁止令。1722年、カルタ、賭博用品の禁。1787-1793年、寛政の改革で抑圧される。文化1804-1817年に木版いろはかるたが登場。

江戸中期の上方の「いろはかるた」が江戸へ流れ「江戸いろはかるた」が」登場する。「犬も歩けば棒にあたる」などのかるたは、「犬棒カルタ」と呼ばれている。この庶民のカードゲームは、庶民が熱中したちうことからわかるように、当時の識字率の高さを証明すものだ。

明治初期には、歌カルタ(源氏物語古今集漢詩、、)が滅亡する。1875年、西洋カルタブームが起こる。1887-1896年、子ども用かるたが登場。1898-1906年黒岩涙香が1904年に競技用かるたのルール統一し、東京かるた会が発足する。1941-1945年あたりには、戦時中であり国威発揚のために、陸軍省海軍省、文部省が後援した愛国百人一首、愛国カルタもでてくる。1945-1954年、幼稚園向けカルタが出てくる。、、、、

1階の店に張り出しているカルタ年表を眺めると、カルタも日本の歴史とともに、盛衰を重ねてきたことがわかる。一大絵巻を見ているようだ。

日本のカルタ発祥の地である福岡県大牟田市には、市立三池カルタ・歴史資料館がある。1991年開館で、大牟田の歴史資料とともに、古来のカルタからタロットやトランプも含め、内外の1万点を集めている。

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カルタは、「耳で聞いて、目で見て、体を動かして札を取る」遊びだ。「かるた時間」を持ちましょうというのが、このカルタ店のメッセージだ。

 この日は、 百人一首展をやっていた。漫画「ちはやぶる」で若い人にも人気がある。国際化も進んでいrるようで、2019年の世界大会ではフランスチームが優勝している。今では社団法人全日本かるた協会も存在している。

このカルタは、現在では驚くべき広がりを見せている。いわさきちひろ「どうわかるた」。「感染症カルタ」、かるたで学ぶ感染症宮沢賢治 木版歌留多。鼻の版画いろは歌留多。膝栗毛滑稽双六。武井武雄 幼児標準カルタ。川上澄生 とらむぷ絵。万葉かるた。俳諧かるた。陽明文庫旧蔵百人一首。漢字博士No.1。馬場雄二のことば合わせ。四字熟語合わせ。慣用句かるた。ことわざかるた。世界史かるた。バードゲーム。花おりおりかるた。上野界隈かるた。、、、、。「育脳」の世界だ。

たかがカルタ、されどカルタ、である。実に面白かった。

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「名言との対話」2月13日。鮎川義介「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」

鮎川 義介(あゆかわ よしすけ 【通称:あいかわ ぎすけ】1880年明治13年)11月6日1967年昭和42年)2月13日)は、日本実業家政治家 

 山口県生まれ。日産コンツェルン創始者東京帝国大学工科大学機械科卒のエンジニア。芝浦製作所入社後、戸畑鋳物を設立。久原鉱業社長に就任、同社を日本産業改組日産コンツェルンとして再生させた。また、関東軍要請をうけて日産本社を満州へ移転、満州重工業開発会社に改組し、満州重工業開発株式会社総裁貴族院議員、帝国石油株式会社社長石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。

終戦後、日立製作所日産自動車、日立金属、日本水産などを擁する新興財閥・日産コンツェルンGHQによる「財閥解体」の対象となり、鮎川自身も準A級戦犯容疑者として20カ月間、巣鴨拘置所に収監された。獄中、鮎川は日本の復興策について考えを巡らせ、日本再生の「カギを握るのは中小企業である」との結論に至った。

容疑が晴れて出獄すると、一転して中小企業の指南役を買って出た。1952年には、ベンチャーキャピタルである中小企業助成銀行を設立する。さらに1953年には、中小企業の育成・振興を政治の側から進めるべく参議院議員となり、56年には「日本中小企業政治連盟」を結成し、総裁を務めた。

以下、『鮎川義介 日産コンツェルンを作った男』(堀雅昭)にみる鮎川語録から。

「俺は絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役立つ方面をきりひらいて行こう」「金持ちが決して幸福なもんではない事を知ってからは、むしろ金持ちにならないで、彼ら以上に羽翼を伸ばしてみたい。その方策はあるまいかと考えるようになったのです」「日産の場合はデモクラシィを基盤とする独裁であったというのが正しい見方であろう」「民主主義を財界に現す方法として、一番適切なものは公衆株だと思う、、、理想は全株を民主化することによって企業運営の公正化を期すことにある」「犬喰わずがある。それを私は好む。、、、人のやらないことばかりやってきた。そして悦に入っているわけだ。そういう損ばかりするクセがある。、、」

極め付きは、「事業は創作であり、自分は一個の創作家である」という言葉だろう。エンジニアとして優れた能力を持つ鮎川義介は、徹底した合理主義で、経済の民主的化を推進した人といえる。ベンチャーを起こし、倒産寸前の大企業を再生させ、三井・三菱に匹敵する財閥を一代で築いた稀代の名経営者である。財閥は解体されたが、自動車、電機、水産など多くの分野のリーダー企業は今も繁栄している。忘れられた経営者であるが、この人のことはもっと深く調べる必要がある。

鮎川義介《日産コンツェルンを作った男》