ニッポン放送「戸田恵子 オトナクオリティ」に出演収録。

ニッポン放送三菱電機プレゼンツ 戸田恵子 オトナクオリティ」への出演依頼があり、有楽町のニッポン放送本社スタジオで1時間ほどで収録をしてきた。テーマは「人物記念館」。

女優・戸田恵子が大人のクオリティ・オブ・ライフ(上質で豊な生活)をエンジョイするための「人・モノ・コト」にフォーカスする番組です。
大人の会話が弾むプチトリビア、大人が生活に取り入れたくなる情報をお届けする30分

https://www.1242.com/otokuri/

15年ほど続けている私の「人物記念館の旅」(本日現在で920館)は、成熟したオトナの旅であり、クオリティの高い旅だという視点からインタビューに答えた。オトナクオリティの旅だ。戸田恵子さんは女優、声優、ナレーター、歌手、タレントとして大活躍している女性。とても楽しかった。

ニッポン放送では、3月8日14時―14時半に放送予定。全国放送。

f:id:k-hisatune:20200215060813j:image

 福沢諭吉宮城まり子を中心に、以下の名前を出しながら楽しく会話。

坂本九山本周五郎小林正樹渋沢栄一大山康晴松井秀喜星野仙一北島三郎吉行淳之介葛飾北斎平櫛田中松本清張土井晩翠アンパンマン。また、今年から始めた企業ミュージアムも以下を紹介。帝国データバンク、日銀貨幣博物館。世界のカバン博物館。カルタ館。

ニッポン放送 日曜14時00分~14時30分 

 ■STVラジオ 日曜9時30分~10時00分■東北放送 日曜9時30分~10時00分■北陸放送 日曜17時00分~17時30分■静岡放送 土曜17時00分~17時30分■東海ラジオ放送 日曜11時30分~12時00分■ABCラジオ 土曜23時00分~23時30分■中国放送 日曜11時00分~11時30分■九州朝日放送 日曜17時30分~18時00分 

スタジオでは武井壮江本孟紀さんを見かけた。

ーーーーーーーーーー

大学:力丸さんにパソコンを診てもらう。

新宿:橘川さん

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」2月14日。山本周五郎「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年明治36年)6月22日 - 1967年昭和42年)2月14日)は、日本小説家

4年前の2016年2月14日の「名言との対話」2月14日には山本周五郎を書いた。

  • 「人間がこれだけはと思い切ったことに十年しがみついていると、大体ものになるものだ」。頼山陽に「十年一剣をみがく」という漢詩の一節がある。不遇な生涯への不平を剣で払うといういみが込められているが、何事であれ十年の歳月を投入して自身の技を磨けという趣旨に使われる。一流の芸術家などを調べると1万時間を費やしているという研究もある。毎日3時間を10年続けると1万時間に達する。このくらいのペースで何かに打ち込むとものになるという。結婚生活も1年続くと紙婚式から始まる。2年では藁婚式、3年は草婚式、4年で花婚式、5年で木婚式、7年で銅婚式、そして10年では錫婚式となる。錫は錆びない、柔らかい性質を持ち、長く使うと表面に落ち着きがみられるという特質があるから名付けられた。少し落ち着いて長く続ける基礎が固まったということだろう。私が長く続けている知的生産の技術研究会でも30歳あたりから多くの偉い人の講演を聴いたが、「新聞の切り抜きを10年続けると本が書ける」というアドバイスを聞いたことがある。40歳に時に初めての単著を書いたが、この勉強会に入って10年経ったところだった。私のブログ「今日も生涯の一日なり」も毎日書き続けて本日で4157日となった。10年以上となったが、確かに最近は「十年一剣をみがく」という心境になっている。10年という年月は長い。途中で環境も変わるし、興味も変化していく。内外ともに移ろっていく。この中で軸足を定めてただひたすらに技を磨いていくのは生やさしいことではない。しかしそれをやっていかねばどうにもならないのは確かだ。

それから4年経った。この間、山本周五郎に関する記述がブログに多くなる。今から振り返ると、この程度の紹介では山本周五郎のことは表現できない。今日は、この4年間で書き綴った情報を並べてみることにする。

2016年2月19日大村智先生ノーベル賞受賞者)の愛読書は、司馬遼太郎山本周五郎だ。

 山本周五郎ほど箴言の多い作家は珍しい。『青べか日記』は箴言で成り立っている。人生作家。説教酒で煙たがられた。山本周五郎の人生の指針「苦しみつつ、なおはたらけ安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ)「人の偉大さはなにを為したかではなく、なにかを為そうとするところにある」。山本周五郎は、小学校卒業後に東京木挽町山本周五郎商店に徒弟として住み込み、店主にお世話になった。ペンネームはそこから取った。直木賞などもすべて辞退している。この人の人生観には興味が湧く。9月末から神奈川近代文学館で始まる「山本周五郎展」は見逃せない。山本周五郎『泣き言はいわない』(新潮文庫)を読了。 

『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)--「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」。『間門園日記(まかどえんにっき)-山本周五郎ご夫妻とともに』(斉藤博子)(深夜叢書社)を読了。神奈川県近代文学館で開催されている企画展を訪問する準備として、山本周五郎に関する本を読んだ。 横浜市の旅館・間門園には山本周五郎が創作の場として独居していた離れ家があった。そこで2年弱、秘書として仕えた著者の日記である。山本周五郎61歳から63歳で、著者は27歳から29歳。素顔の山本周五郎がわかる本だ。山本周五郎の日常と人生観がよくわかる。そこに絞ってピックアップしてみたい。・いわれてからするのは用ではない。・僕は物書きですから全部作品の中でいいます。・食べ物だけは「ぜいたくさせてね」・女性の出産より苦しいよ。・人生は点のように短いものだから一日を大切にするんだよ。僕の人間を見る眼を良くみておきなさい。・恵まれなかった生涯と合わせてベートーベンの作品が好き。・家庭に入ったら働いてはいけない(収入を得るな)男が駄目になる。・人間は弱いから温かい環境にいては仕事ができない。仕事を別に持って独居している。・日本酒は醸造だから体に悪い。飲むならウイスキーに。保証人の印だけは押してはいけない、お金を貸すならあげるつもりで貸すこと。・より多くの人に意味がわかって読んでもらえる本が良い。ヘミングウェイをみなさい。・女優には会わない。将来性のある男の人には話をする。・自分の作品には挿絵はいらない。・食生活で健康の90%は維持できる。・時代物を書いているつもりはない。本当のことでなければ書かない。・日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い、あとは外国の作品を読みなさい。日本は島国で視野が狭いから。・人間関係ができるとその人を通じての仕事を尊重する。・酒をうまいと思って飲んだことはない、誇張していえば、いつも毒を飲むような気持ちだった。・相手のためになること、正しいと思うことは立場を無にしていうこと。・多くの人に読んでもらえる安い価格の文庫を好む。・作家を志す者は毎日書け。書く習慣をつけること。同業者が集まっても得るものがない。そんな時間があったら下町を歩いた方がよい。・お金は貯えるものではない。お金は使うためにある。・座右の銘はストリンドベーリの書「青春」より。「苦しみつつ働け、苦しみつつなほ働け、安住を求めるな。この世は巡礼である」・文壇で現役でなけれな生きていたくない。・僕には一生書き切れないテーマを持っているので時間がない。・五十を過ぎたた「ながい坂」を読んでごらん。僕の書いたもののなかで最高の作品だよ。・山本質店では物干しにござを敷いて勉強した、僕のように総て独学の作家はもう出ないでしょう。・僕の人生は失敗しなかったことが失敗だった。・政治は庶民のことは何もしてくれないから関心を持ってはいけない。

神奈川近代文学館で、没後50年記念の「山本周五郎展」が開催中だ。童門冬二が師匠と仰ぐ作家・山本周五郎1903年ー1967年。享年64)は直木賞を始め、あらゆる賞を辞退している。それは、作家は良き小説を書けば良いという人生観からきている。そして山本は純文学と大衆文芸の差は認めなかった。この作家に興味があるのは、丁稚奉公をした「きねや」の主人で父と仰ぐ山本周五郎(洒落斎)の名前を、ペンネームにしたという逸話があるからだ。物心両面で若き日を支えてくれ、「今でも本当の父と思ってゐます」と遺族に書いているように、実の父親以上に敬愛していたのだ。そのきねやは1923年の関東大震災で焼失し休業となる。このとき、文筆で身を立てようと決心する。山本周五郎座右の銘は「苦しみ働け、常に苦しみつつ、常に希望を抱け。永住の地を望むな。此世は巡礼である」。このスエーデンンの劇作家・ストリンドベリイの「青春」の言葉は、「ひどく予を鞭撻し、また慰められた」と述懐している。文学の仕事というのは、「そのときに、どういう悲しい思いをしたか、その悲しい思いの中から彼がどういうことををしようとしたかということを探究するのが文学の仕事だ」と語っている。周五郎の作品7つが教科書に載った。ひとつの作品が中学、高校のいずれにも採択為れた例は少ない。山本周五郎の小説は、生き方の教科書だ。また、ラジオ東京テレビ(TBS)では山本周五郎アワーがあり茶の間の人気を集めていた。1988年に創設された山本周五郎賞は物語性の強い作品に与えられている。第1回の山田太一から始まり、吉本ばなな宮部みゆき篠田節子江國香織京極夏彦熊谷達也天童荒太、恩田睦、伊坂幸太郎原田マハと、なかなかいい人選をしている。面白いのは、「文壇酒徒番付」(1964年1月)が貼ってあり、何と山本周五郎は東の横綱に鎮座していた。張出横綱井上靖源氏鶏太大関高橋義孝壇一雄吉田健一水上勉だった。最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができるとあり、ショップで上下巻を購入した。

山本周五郎『ながい坂』(上巻)を読了。周五郎の自叙伝であり、共感を呼ぶ自己形成小説の絶品。山本周五郎『ながい坂』(上)(新潮文庫)を読了。最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができる作品。総ページ数は1000頁を超える長編小説。志を持つ主人公をめぐる物語だが、登場人物の口を借りて周五郎の特徴ともいうべき人生訓が随所に散りばめられている。清廉潔白な主人公が泥にまみれながら成長していく物語。志を達成するかどうか、下巻を読みすすめたい。 「下巻」の文芸評論家・奥野健男の解説から。心して読みたい。・自分の屈辱の運命をはねのけ、その下積みから這い上がって、まともに生きようとする人間の姿を描きたい。作者は一揆とか暴動とか革命とかいうかたちでなく、圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。・学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲をを破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しく苦い体験をふまえての人生観である。・既成秩の内部における復讐と内部からの改革の物語なのだ。・「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「私の自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。、、、そうです『ながい坂』こそ、山本さんの『徳川家康』であったのです。」(木村久に典)・日本文学においてこのくらいロマンティシズムを抑えた立身出世小説を、このくらい社会との関連において綿密に積み重ねられたビュルドウングス・ロマン(自己形成小説)をほかに知らない。・それはそのまま今日の会社員、公務員などのサラリーマンの世界に通じている。自分のつとめている企業を全宇宙とし、その中で下積みから努力し、認められ責任ある地位につき、それをよりよく勇気をもって改革し、社業の発展に自己の理想と全人生を賭けるサラリーマンの切実な心情をと生き方がここに描かれている。・『ながい坂』の主人公の生き方は、山本周五郎の作家、売文業者としての生き方、処世術の自叙伝だと思う。こういう細心な生き方をしながら、ついに裏街道や挫折から浮びあがることのできない貧しい庶民のあきらめに似た哀歓を、絶品ともいうべき短編にうたいあげている。 
山本周五郎『ながい坂』(下)を読了。奥野健男が巻末の「解説」で次のように述べている。「作者は一揆とか暴動とか革命とか言うかたちで爆、圧倒的に強い規制秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正と戦い、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。」 「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「わたしの自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。」「学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しくにがい体験をふまえての人生観である。」 以下、私が共感する主人公の三浦主水主の考えや言葉。奥野健男のいうように、著者の人生観だと思う。人間はその分に応じて働くのが当然である。 人も世間も簡単ではない、善悪と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、その他もろもろの相反するものの総合が人間の実体なんだ、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくのだし、眼の前にある状態だけで善悪の判断は出来ない。 「人間のすることに、むだなものは一つもない」と主水正は云った。「眼に見える事だけを見ると、ばかげてイタリ徒労だと思えるものも、それを繰返し、やり直し、つみかさねて行くことで、人間でなければ出来ない大きな、いや、値打ちのある仕事が作りあげられるものだ、、、」「人間は生まれてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る」 いちばん大切なのは、その時ばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気で何かをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、、」 人間はどこまでも人間であ利。弱さや欠点を持たない者はいない。ただ自分に与えられた職に責任を感じ、その職能を果たすために努力するかしないか、というところに差ができてくるだけだ。 しかし、今日まで自分は自分の坂を登ってきたのだ、と彼は思った。」「そして登りつめたいま、俺の前にはもっと険しく、さらに長い坂がのしかかっている」と主水正はまた呟いた、「そして俺は、死ぬまで、その坂を登り続けなければならないだろう」

三重野康日銀総裁は読書家である。読書日記をつけていて年平均80冊という。私の2017年の読書日記は84冊であるから、同じようなペースである。三重野は伝記と古典を好んだ。また山本周五郎は若い頃から愛読していた。山本周五郎にはファンが多い。ノンフィクションの沢木耕太郎もそうで、最近『山本周五郎名品館』全4巻の傑作短編アンソロジーを編んでいる。 

(神奈川県知事)は「釈尊マルクス・周五郎」を尊敬するとユーモアも混ぜながら、山本周五郎を語ることもあった。山本周五郎は偉そうな口をきく人間を心底嫌っていた。ご都合主義の「革新」イデオロギーよりも、人間の真実への「保守」を尊んだと長洲は書いている。革新知事だった長洲知事は次第に保守に傾いていく。最近、沢木耕太郎が「文芸春秋」で「山本周五郎との三度の出会い」という一文を書き、「山本周五郎名品館」四冊を編んでいることを知った。

「名言との対話」12月23日。早乙女貢会津武士の末裔としての血の意識が痛切に私の運命を支配している」。早乙女 貢(さおとめ みつぐ、1926年1月1日 - 2008年12月23日)は、日本の歴史小説時代小説作家戊辰戦争で賊軍の会津藩士であった曾祖父はアメリカにわたる。その娘の祖母から旧満州会津精神を叩き込まれた。15歳あたりで作家を志して「会津」を書くことを意識する。敗戦後、中国旧満州ハルピンから九州博多に引き上げる。1948年、上京し山本周五郎の知遇を得て師事する。1969年、「僑人の檻」で直木賞を受賞し、その後は、時代小説・歴史小説を主軸としながら、現代小説、ミステリー、歴史エッセイ、評論、紀行など多彩な創作活動を展開した。大衆文学研究賞特別賞を受賞した2003年刊行の「わが師 山本周五郎」(集英社文庫)を読んだ。尾崎四郎が「曲軒」とつけたように狷介で扱いにくい周五郎に可愛がられて、文学修行と人間修行をする。本名は1月1日生まれの太閤秀吉に因んだ鈴ヶ江秀吉である。ペンネームは若い娘に貢ぐという意味だ。師は執拗にこの名前の変更を促した。作家は作品で勝負すべきで、名前は平凡でいいという考えだったが、早乙女は応じていない。この本では身近で観察できた弟子は師の思想、日常を語っている。師を語ることは弟子自らを語ることになる。私も周五郎のファンであり、二人の作家を理解する貴重な書であった。早乙女貢は師の山本周五郎が没した3年後からこの鎮魂の書ともいうべきライフワークが始める。「会津士魂」は1970年から18年かけて「歴史読本」に連載し、62歳で7000枚13巻の長編として完結し、吉川英治文学賞を受賞する。その後、「続会津士魂」8巻も書き、2001年に33年間の歳月を費やして75歳でついに完結する。周五郎は「書かずにいられないもの」があるなら、どんな偉大な作者も及ばない独自の価値があると語っている。早乙女の場合、それが「会津」だった。早乙女貢は、敗者の側から歴史を丹念に検証していった。それを支えたのは怨念であった。

 山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所(帝国データバンクの前身)で過ごしている。

 

 

 

 

 

 

山本周五郎は20代の前半4年間を帝国興信所で過ごしている。