『耶馬渓紀行』(田山花袋著、小杉放菴画)ーー大地に描かれた山水画、山水絵巻。

耶馬渓紀行』(田山花袋著、小杉放菴画)を読了。

画家の小杉放菴を連れとして、文豪の田山花袋が語る旅行記である。 中津から耶馬渓を中心に、ふる里の名勝について、目を開かされた本だ。

中津ではヤバケイクラブ、自性寺、大雅堂、福澤氏邸址、倉の中、中津城址、忘言亭、などが載っている。八面山、山国川、青の洞門、競秀峰、羅漢寺、猿飛、指月庵、三ヶ月池、うるわし谷、それから豊後森、湯布院、飯田高原、別府なども登場する。文中では「好いね」というだけを発言する小杉放菴が描いた絵も掲載されている

頼山陽伊藤博文、禅海和尚、平田吉胤、吉田初三郎、朝吹英二、後藤又兵衛、雲華上人、広瀬淡窓、村上姑南、国府犀東、油屋熊八、、、、。

田山花袋は生涯で6度も耶馬渓を訪れている。浅い谷、平凡な水の瀬、少ない樹木、深山の趣のなさ、世離れた感じ、などをは失望することはないという。1916年には日本新三景に選ばれている。

渓流、白亜の土蔵、田舎、トンネル、飛瀑、奇岩というように、文人画の絵巻をひも解くようにだんだんと現れてくるさまは、天下の名山水だという。耶馬渓は、秋、そして春がよい。

青の洞門、羅漢寺、柿坂のような村落、五龍の渓、鮎返りの瀑、帯岩、津民谷、、、などすべて単独で考えてはいけない。耶馬渓は全体として面白い。耶馬渓は人煙近いところに展開されている。人家あり、宿駅あり、街道あり、炊煙ありというところに独特の山水絵巻がひらけている。

田山花袋自身が、鳥瞰図絵師となった吉田初三郎の「天下無二 耶馬渓全渓の交通図絵」で描いたように、深耶馬、裏耶馬、奥耶馬と連なる耶馬渓という山水画の中に入り込み、点描された人物となる感覚を味わったのだ。これこそ、山水画の本質だ。「もり谷の奥に滝ありもみちあり いさゆき見ませわれしるへせん」という花袋の歌碑は玖珠町の三島公園にある。

1926年、約100年前にこの地を訪れた文豪と画伯のたどった道を旅したい気分になってくる。歴史と地理を睨んだ素晴らしい書籍だ。こういう本が「名著リバイバル」として九州福岡ののぶ工房という出版社から出ているのは素晴らしい。この本を紹介してくれた耶馬渓出身の松田俊秀君に改めて感謝する。

2017年には「やばけい遊覧ーー大地に描いた山水絵巻の道をゆく」が日本遺産に認定された。私が2017年12月26日に耶馬渓府物館を訪問したとき、「空から見るーーやばけい遊覧」。大地に描いた山水絵巻の道をゆく」展が展示されていたのを思い出した。耶馬渓は大地に描かれた山水画であることがわかった。。http://k-hisatune.hatenablog.com/entry/2017/12/26/000000

 

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大学:スケジュール。全集。

書斎:全集の構成。まえがき。

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「名言との対話」2月26日。衣笠貞之助「(映画に)脚本はいるか? メモでいいんじゃないか」

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本俳優映画監督脚本家

 衣笠が映画界に足を踏み入れたのは1917年(大正6年)、22歳だった。日本映画の草創期である。この映画監督はもともとは新派の女形だった。衣笠は京都の衣笠山の見える下宿から、それに本名の貞之助をくっつけた芸名だ。

 女形役者をしながら、好奇心で何でもためしてみる。脚本、撮影などのかんどころがだんだんわかってくると、自分の脚本で自分の作品を作りたくなる、そのチャンスが巡り、脚本・監督・主演という映画をつくってみている。牧野省三のマキノ映画時代には監督になる。沢田正二郎主演の「月形半平太」が当たった。いつまでも映画会社にいててはいけないという「青年」の心は独立をする。

新傾向の映画をいたいと決心し、松竹の白井信太郎に「衣笠映画連盟」のいっさいを預けて、足かけ3年のヨーロッパの旅に出る。ソ連や欧州の映画事情や映画技術を学んだ。日本初の本格的トーキー映画「忠臣蔵」をつくる。主演は林長二郎、後の長谷川一夫である。「雪之丞変化」も大成功だった。主題歌「流す涙がお芝居ならば、、、」は東海林太郎のヒット作になった。NHK「人物録ーーあの人に会いたい」では、「泣かさなきゃダメなと必ず観客は泣きますよ」と語っていた。

この自伝は1935年あたりで終わっている。40歳あたりだ。その後、衣笠は43歳で東宝映画に移籍。51歳でフリー。54歳、大映入社。58歳、イーストマンカラーの第1作「地獄門」がカンヌ映画祭グランプリ受賞・アカデミー賞(外国部門)受賞。その後も精力的に映画を作り続けている。衣笠は映画の黎明期から昭和の黄金期まで、万年映画青年として新しい表現を追い求め、生涯で118本の監督作品を遺した。

衣笠はメモ魔だった。「映画」をつくると考えながら、簡潔な詩的表現で生きたままのイメージを簡単にメモにする。「はげしい雨、降りしきる雨、病院」などのメモを前に画面が自ら展開していくのを待つ。進行にしたがって、しだいにヒントの書き込みが増えてくる。映像として膨れあがる。それが衣笠の映画作りである。「狂った一頁」という作品で川端康成横光利一と仕事をしたとき、映画とは何かから始まった。脚本より、メモから始めるべきだという衣笠流の映画づくりはここで確信に変わったようだ。

 

わが映画の青春―日本映画史の一側面 (1977年) (中公新書)