「蓋棺録」ーー梓みちよ。宍戸錠。小林庄一郎。藤田宣永。

「蓋棺録」(文芸春秋4月号)から。

梓みちよ。「この歌(こんにちは赤ちゃん)は私の宝なのだと、気がつくのに時間がかかったんです」(1月29日没。76歳)

宍戸錠「90歳の殺し屋が、100歳の殺し屋に殺されてしまう映画を撮りたい」(1月18日没・86歳)

小林庄一郎「これで関経連会長にはなれないな」(2月4日没。97歳)

藤田宣永「妻は僕のすべてですよ」(1月30日没。69歳)。「世間の扱いが違う二人が夫婦で、残酷な日々でした」(小池真理子

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立川

・所用

・けやき出版を訪問。

大学

・秘書と打ち合わせ。

・学長室:渡辺、山本、高野。

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「名言との対話」3月12日。上原正吉「奉公人根性を去れ」

上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年明治30年12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本実業家政治家

埼玉県出身。 高等小学校卒業後、いくつかの職場を経て、大正製薬創業者の石井絹治郎に仕え、業績をあげ続け、第3代社長に就任する。

この人の名が世間の耳目をそばだてたのは、高額所得番付である。1964年1966年1976年1977年1979年の計6回も日本一を占めた。当時の新聞、テレになどのマスメディアで名前をよくみた記憶がある。この度『大正製薬 上原正吉と その妻小枝』(仲俊二郎)を読むと、その所得の大半は、大正製薬株式配当であることを知った。社長として高収益を上げ続ける業績の賜物だったから価値がある。

上原は薬業とい製造業を天職に定めた。そして「営業は男子一生の仕事なり」の気概を持って、禁欲的職業倫理で勤勉に働いた。「上原正吉、この名をして財界の一勢力たらしめん」という高い志を胸に、小成に甘んじない姿勢で邁進していく。

 上原正吉の特徴は、「考える」ところにあった。しつこく考える人であった。常識を疑う姿勢で、問題を根本から考えて、根気よく人に聞き、気がついた点をノートに記し、解決策をひねりだす。

問屋を通さない特約株主制度を創設する。小売りの薬店に100円の出資で株を所有してもらい。配当を払い、販売実績に応じて割戻金を払う。生産者と消費者が株主である得意先の薬屋を通して直結することになり、消費者の声が直接届き、品質が向上することになった。そしてこの特約株主制度をさらに大衆化した共生会をつくる。今でいう一株株主制度だ。これで資金調達問題も一気に解決できた。共同で工場をつくり、薬を生産し、自家製の専売店として店頭に並べ売るという仕組みだから、メンバーは喜んだ。

 また社員教育に熱心だった。腕のよい外商員を養成し、自分の分身をつくることに没頭した。従業員は住み込みであり、夕食後、日々の発生する問題とその解決策を論じ、薬という製品知識を教え込んだ。いわば毎日が合宿であった。それは「上原学校」と呼ばれた。上原の薫陶を直接受けた卒業生たちと一緒に大正製薬をつくったのだ。上原は人をつくったのである。

上原自身も、激務の傍ら、夜学で明治薬学校(明治薬科大学)で学び、大阪青年会英語学校(YMCA)に夜通い、一番の成績を残している。自分自身の教育にも成功している。そして常に陣頭に立った。

上原の仕事のやり方は近代的であり、感心した。文書は候体をやめて口語体にした。コミュニケーションツールとして社内報を活用し、社是の説明、偉人傑人を紹介した修養講話、修羅場の経験を語った。作文と面接だけの入社試験で有為の人材を確保。作業の標準化。できる社員のモデル化。製品の規格化。無借金経営。社員の躾。始業よりも早い出社。年功序列の破壊。伝票へのカナタイプの全面採用。モンロー計算機の導入。IBM型電子計算機の導入。、、、。こういった足跡をたどると、常識にとらわれない、革新の人だったことがわかる。新時代の経営の王道を自ら切りひらいた、その姿がみえる気がする。

製品の品質を向上させた後は、メディアを使った広告を大胆に売っていく。始まったテレビでは、私は「サモン」のコマーシャルをよく覚えている。「子曰く、、、、40歳にして惑わずサモンを飲む。楽しいかな人生、幸福なるかなサモン」で一世を風靡した。王選手の「ファイトでいこう!リポビタンD」の宣伝は巷にあふれて、ビジネスマン時代の私もよく飲んだ。提供番組もいい。「コンバット」、「木下恵介劇場」、「青春とは何だ」、主題の「柔」を美空ひばりが歌った「姿三四郎」など枚挙にいとまがない。

52歳からは政治家としても活躍し、参議院議員を5期つとめた。科学技術庁長官、原子力委員長などを歴任した。遺族援護が政治家としてのライフワークだった。

「焦らず、無理せず、背伸びせず」。息子で後継社長の上原昭二は父の言葉を挙げて、「自分の力以上のことをやると、破滅を招いてしまう。経営面でいえば、自分たちの力を十分見極め、無理に背伸びをしないことが肝心だということです。これが私の経営観であり、人生訓になっています。」と語る。息子の教育にも成功しているようだ。11歳年下の妻・小枝との二人三脚で築いた人生であった。

「奉公人根性を去れ」は、本人の心構えを窺える言葉だ。若い頃から、奉公人意識ではなく経営者として当事者意識でことにあたったのであろう。奉公人根性とは、今でいう「サラリーマン根性」のことだ。阪急創業者の小林一三が「サラリーマンとして成功したければ、まずサラリーマン根性を捨てることだ」と言ったのと同じである。意識が、心構えが、志が、人を育てることを痛感する。

 

大正製薬 上原正吉とその妻小枝―わずか七人の会社からの出発だった