大涌谷。小田原城。

大涌谷

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小田原城
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帰宅後、届いていた立花隆『知の旅』(文春文庫)を読了。

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「名言との対話」3月16日。宮部金吾「心中の情緒や思想を最もよく言い現すには英文に限ると思っていた」

宮部 金吾(みやべ きんご1860年4月27日万延元年3月7日) - 1951年昭和26年)3月16日)は、日本植物学者

北海道大学初代植物園園長。札幌市名誉市民第一号。北海道民初の文化勲章受章者。 宮部は「初代」「第一号」「初」などの肩書が多い。開拓者であったという証拠だろう。

江戸生まれであるが、父と親しかった探検家・松浦武四郎(北海道の命名者)の著作を読み、北海道の植物に興味を持って、札幌農学校にクラーク校長が去った二期生として入学し、同期の内村鑑三新渡戸稲造と親しくなる。特に内村鑑三とは4年間同室であり、終生にわたって手紙のやり取りがあった。内村から宮部への手紙は225通にのぼる。内村の70歳での逝去にあたって、宮部は「内村君の如き我同窓会中の一大偉人」とし、「特に内村・新渡戸稲造両君と私の三人は、最も親密の交際を致しました。斯くして札幌に於ける学生生活中、三人は始終行動を共にしました」と偲んでいる。三人ともプロテスタント集団である札幌バンドの一員だった。

宮部は札幌農学校卒業後、東大に2年間国内留学し、札幌農学校助教授となる。その後、アメリカのハーバード大学に3年間留、学千島・樺太の植物の採集・分類をした「千島植物誌」を刊行し国際的な名声を得る。帰国し教授。北海道帝国大学には46年間在職した。

 私は2019年に札幌市内にあるカデル27というビルの7階にある「アイヌ資料センター」を訪問した。向かい側に北大植物園があった。正式には北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園。札幌農学校のクラーク博士の進言で、1900年にできた植物園で、初代園長は宮部金吾であった。1927年に二代目の伊藤誠哉園長まで長く園長をつとめた。1991年にオープンした宮部金吾記念館も園内にあるのだが、月曜日は残念ながら休みだった。ほとんどの博物館、美術館、記念館が休館だ。「月曜日開館のミュージアム」というサイトで見つけたのがアイヌ資料センターだった。他の曜日と半々にするとか、何か工夫はできないのか。月曜日は鬼門である。観光立国が泣く。

北大構内に青年寄宿舎という私設の学生寮があり、宮部金吾教授はリベラルで節度のある生活と運営のスタイルの寮だった。禁酒禁煙、勉強家の集まりとして知られていた。教育者・宮部の姿を垣間見る思いがする。この寄宿舎は2005年に閉じるまで107年で900余を輩出している。北海道大学付属図書館には宮部金吾文庫がある。

1947年、宮部金吾は90歳で他界する。内村鑑三は70歳、新渡戸稲造は71歳。北海の三星とよばれた三人だが、宮部がもっとも長く活躍したことになる。この三人に共通するのは英語が堪能であったことだ。内村鑑三は英語で『代表的日本人』を書き、新渡戸稲造は英語で『武士道』を書いた。そして宮部金吾は「心中の情緒や思想を最もよく言い現すには英文に限ると思っていた」と語る。札幌農学校の教育が、人格教育も含めいかに優れていたかがわかるエピソードだ。