「戸塚洋二 ニュートリノ館」(富士市)

 品川から新幹線で橘川さんと意見交換をしながら新富士到着。富士箱根伊豆国際学会事務局長の鈴木大夢さんの車で富士宮へ。住宅をチェック。

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帰りがけに入った「富士川楽座」で思いがけず「戸塚洋二 ニュートリノ館」に遭遇した。戸塚洋二(1942年3月6日 - 2008年7月10日)。享年66。

2002年にノーベル賞をもらった小柴昌俊を助けて、また同じく2015年にノーベル賞を受賞した梶田隆章(第1回戸塚洋二賞受賞者)らを率いてスーパーカミオカンデをつくった科学者。素粒子ニュートリノが質量をもつことを明らかにした。物理学と天文学の分野の歴史的な発見だ。文化功労者文化勲章を受賞し、ノーベル賞受賞の呼び声が高かったが、2008年に惜しくも早逝した。富士市名誉市民。

小柴は追悼文集で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と、ノーベル賞受賞を期待されながらの死去を惜しんだ。

「新しいことへのチャレンジが大好きで、何事にも全力で取り組む研究者魂の持ち主だった。スーパーカミオカンデという観測施設で事故が起こったときに、あの人が再起に向けて皆を奮起させたエネルギーとリーダーシップは今も忘れられない。あの人が生きていれば、どんな新たな発見をしてくれたかと思うと残念でなりません」

梶田隆章

「主人は好奇心旺盛な研究者でした」と話す戸塚裕子さん「好奇心が旺盛で、私がミシンを踏んでいると、ちょっと見せてとそのミシンを分解する。花や樹木を見ると、何であの花はあんな形なのかと子どものような疑問を持ち、そのことを調べ始める。研究が好きで、現場が好きで、3度の食事より仕事という人でした」(妻の裕子さん)

 

 

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「名言との対話」3月20日。五島昇「人生四倍、休戦の哲学」

五島 昇(ごとう のぼる、1916年大正5年)8月21日 - 1989年平成元年)3月20日)は、日本実業家

東急グループの創業者・五島慶太の長男東芝勤めたあと、1945年に東京急行電鉄に入社。1954年5月から37歳で社長に就任。1959年に父が亡くなった後、東急百貨店、東急不動産等で構成する東急グループの実権を握り、父慶太の負の遺産である「東急くろがね」「東洋精糖」「東映」の各事業の整理を段階的に実行した。一方でグループを再編し、祖業である鉄道業・運輸業と関連性の高い交通、不動産、流通、レジャー、ホテルなどの事業を選択し集中を行った。伊豆急行伊東〜下田間、東急新玉川線田園都市線開通、多摩田園都市開発などのプロジェクトを遂行した。また東急建設東急エージェンシー東急ホテル東急ハンズ、渋谷109などを手掛けた。父は大規模開発志向だったが、五島昇はソフトに注力した。1984年、永野重雄の後任として日本商工会議所会頭に就任している。

ゴルフのハンディが6という名手であったことでわかるように、「仕事に熱を入れない、ゴルフ三昧の遊び人」という評価があったが、実際には東急中興の祖といわれるまで実績をあげた。

「言葉でも文章でも相手がわからなければ何にもならないんだもの。平易な言葉で分かるような言い方をしなければ駄目なんだ」。

「よき国際人でなく、よき日本人を作ればそれが国際的に通用するんです」。

「私はいつも向こう傷を恐れるなと言うんです。向こう傷は男の勲章だと」。

 生存中の人物は書かないと決めていた人物論の名人・城山三郎は、五島昇のくっきりした個性と、「人生四倍、休戦の哲学」をテーマとする『ビッグボーイの生涯』を書いた。まだこの本を読んでいないが、城山三郎のいう「人生四倍、休戦の哲学」、「休戦の価値」「休戦の美学」を読むことにしたい。