立川の女性中心の企業を訪問

大学で一仕事。松本先生と日程調整も。

午後、立川のけやき出版を訪問し、小崎奈央子社長と木村さんと事前打ち合わせ。会社情報 | 株式会社けやき出版

お二人と一緒に立川の(株)シーズプレイスを訪問。https://csplace.co.jp/

森林育代社長ら女性役員らとミーティング。けやき出版の新雑誌の企業紹介の図解の監修をやることになったので、その小手調べ。2時間ほど、楽しく過ごす。創業わずか数年で80人のスタッフを抱えながら、子育て支援、創業・就業支援、男女共同参画地域活性化の各種事業を展開している勢いのある企業だ。企業の現在像、将来の方向などへのヒントが提示できたと思う。

終了後、カフェで総括と打ち合わせ。私の各種原稿の編集を手伝ってもらうことになった。

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「名言との対話」3月23日。山川均「しかし最後に笑うものがよく笑うものだ」

山川 均(やまかわ ひとし、1880年明治13年)12月20日 - 1958年昭和33年)3月23日)は、在野の経済学者で、社会主義者社会運動家思想家評論家

岡山県倉敷生まれ。同志社に学ぶ。堺利彦荒畑寒村らと1927年昭和2年)に『労農』を創刊し、共同戦線党論を展開した、労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川は向坂逸郎らと共に社会主義協会において非武装中立論を説き、日本社会党に強い影響を与えた。山川は復興時非武装中立論を説いたのであり、ソ連の脅威を十分に認識した上での将来的な武装を認めていた。

社会主義運動の中心人物の一人であった本人が「青年時代の大部分を獄中で過ごした」というように、20歳から51歳で第一線の運動から引退するまで、常に監獄に入っている。そして30代後半からの論文などの著述も多い。波乱万丈の生涯だったとみえるが、単調で変化のない生活であり、通りいっぺんの凡人の歩んだ平凡な道であるといい、自伝には「ある凡人の記録」というタイトルを用いている。

不敬罪巣鴨の監獄に入るまでは無軌道でで思い上がっていた。監獄の独房生活で、自分は危ない岐路にたっている無知で無能な一青年に過ぎないと気がつく。社会主義も胃の腑の問題であり、経済の問題であるとわかり、経済学史から始めて代表的な書物を年代順に読み進む。監獄は勉強にいい。本人にとっては3年半の刑期は短かすぎたそうだ。

36歳での再婚の相手は、10歳年下の山川菊枝である。日本における婦人解放運動の思想的原点となった女性である片山内閣の初代婦人少年局長。夫・山川均没後22年生きて活躍した。『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞受賞。死去の翌年に山川菊枝賞が設立され2014年まで続いた。その菊枝は『山川均自伝』の「あとがき」で次のように均を描写している。

「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは、、、名人芸」

自伝の中には思想家、実践家が多数登場する。その人物論も興味深い。幸徳秋水は、鋭いキリが柔らかなもので包まれていた。堺利彦は、崇拝の対象とするには不向きな人だった。大杉栄は、非凡であった。説よりも人物が人をひきつけた。、、、。1908年の金曜会事件下獄記念で撮影した、28歳の山川、36歳の堺、23歳の大杉の3人の写真をみると、それぞれ一廉の人物であったことがわかる風貌だ。

山川均は言う。「最後の勝利をうるまでは、おそらくわれわれは何度も負けるだろう。あるいは負け続けるかもしれない。なぜならば、われわれが負けなくなった時は、われわれが最終的に勝つ時だから。われわれは負けることによっても強くなることができる」、そして「しかし最後に笑うものがよく笑うものだ」と。

山川均自伝―ある凡人の記録・その他 (1961年)