第1回「北高川柳の会」ーー宗匠は松田君こと「不良長寿」。

15時:荻窪。猪俣君を出版社に紹介。

17時から:上野。第1回「北高川柳の会」。宗匠は松田君こと「不良長寿」。彼の住む台東区は、柄井川柳が住んだ川柳発祥の地。蔵前に碑、上野広小路の常楽院(「俳風柳多留」の版元・星運堂に近い)、東照宮に川柳の句。

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「北畔」(きたはん)へ。この店はホヤやハタハタなどみちのく東北のメニューが多い。寺山修司が愛した店。BS-TBSで日曜日夜放映の「吉田類の酒場放浪記」でも取り上げられた。座敷の衝立は先代女将とと幼なじみだった棟方志功の作品だ。やはり上野の歓楽街は人が少ない。

以下、不良長寿の夕刊フジの「ビジネス川柳」入選作品を中心に。

 出る杭を 育てたあげく 追い越され

 丸投げを したいができぬ 五十肩

 黒板に 外出と書き 映画館

 大酒飲み おなかに一軒 家が建つ

 たまの墓参 祖父は怒って 蚊に化ける

 同窓会 あなたは誰の 繰り返し

 たばこ部屋 トップとヒラの かきねなし

最近作

 森友の 正体見たり 赤木メモ

 花見まで 奪ってしまう 新コロナ

 マスク越し あいさつされて あんた誰

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朝はヨガ:1時間

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「名言との対話」3月24日。岡村昭彦「今日は、どんな発見がありました?」

岡村 昭彦(おかむら あきひこ、1929年昭和4年)1月1日 - 1985年(昭和60年)3月24日)は、国際ジャーナリスト

東京医科専門学校(東京医大)を退学処分。日本共産党の活動家として活動、医師法違反などの罪で服役する。出所後は、三池闘争、部落解放同盟への参加などを行っている。1962年パナマ通信に入社後、ベトナム戦争の取材で従軍し、1964年に南ベトナムでの報道写真が米誌「LIFE」に特集掲載されて、注目を浴びた。この作品で芸術選奨アメリカ外人記者クラブ海外者写真部門賞などを受賞。1966年、1967年に相次いで刊行した「南ベトナム戦争従軍記」とその続編はベストセラーになった。フリーになって、ドミニカ、ビアフラなど第三世界を駆け巡り、戦争の犠牲者になる民衆の姿をカメラトペンで訴えた。1986年、「岡村昭彦集」が刊行された。死後の1989年には蔵書2万冊が静岡県立大学に納められた。後に「岡村昭彦文庫」が設けられた。

岡村昭彦は、私が所属するNPO法人知的生産の技術研究会のセミナーで2度講演をしてもらっている。強烈な個性であった岡村については、知研の先輩たちからよく聞いていた。残念ながら私がまだ入会する以前だったので、直接には本人には会ったことはない。当時岡村の「南ベトナム戦争従軍記」は読んでいる。講演録が残っているので読んだ。以下、岡村昭彦の写真観。

・写真の読み方をちょっとその写真のわきにつけてやればインターナショナルに通用する記号です。

・報道写真とは、証拠力の強い写真を撮ること。

・報道写真家というものは、詩人によく似た職業だ。

・国際ニュースの世界では、、、一つの主題を二十年間追求し続けた実績がないと、そのサブジェクトの専門家としては、発言権が認められません。

岡村昭彦にはライフワークが3つあった。個人シリーズ「われわれはどんな時代に生きているのか」。「How OKAMURA gets the story」。そして、ビアフラ独立戦争における自身の失敗の記録。

講演録を読みながら、影響を受けたのは、佐野常民の孫娘であった母だったことがわかった。幼いころから「今日は、どんな発見がありました?」と毎日聞かれた。発見がなかったと答えると「なんですって?発見のないような一日を過ごしてはいけません!」と怒られた。「昭彦さん、、、! 手段で迷っているときは、目的がはっきりしていないからですよ」。新しい発見をささがすという習慣が国際ジャーナリスト岡村昭彦を創ったのだ。

報道写真家、国際ジャーナリストになっていく30代の初めまでは、この発見のために、熱血のまま手あたりしだいに社会問題に首をつっこむ無頼の日々だったようだ。ようやく人生の目的が定まって、34歳でカメラという武器を手に入れ、遅い出発ながら縦横に活躍を始める。「今日の発見」と「目的と手段」という岡村昭彦の偉い母の問いかけは響く。これは教育の神髄ではないか。自分にも日々問いかけたい。