梅棹マンダラの宇宙を探検中。

 梅棹忠夫著作集第14巻「情報と文明」。49枚の図解を描いた。279-482pまで図解化がこの4日間で進んだ。「情報論ノート」の、情報産業社会におけるデザイナー。情報産業とファッション、情報産業社会における芸能、唯物論政府、ミナト神戸の運命、情報と消防、情報社会への対処、そして情報論語録全12、情報産業論講義。梅棹文明学の骨格をなす「文明の生態史観」と「文明の情報史観」の合計で、96枚に図解になった。

  クラウドファンディング:初動の3月28日から3月30日は、10人の支援者で95500円。3月31日から4月5日までで支援者が7人増えて137000円増加し、合計で236500円と目標50万円の半分に近づいてきた。

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「名言との対話」4月5日。マッカーサー「理想を放棄することにより人は老いる。信念を持てば若くなり、疑念を持てば老いる。自信を持てば若くなり、恐怖心を持てば老いる。希望を持てば若くなり、絶望を持てば老いる」

 ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur1880年1月26日 - 1964年4月5日[は、アメリカ軍人陸軍元帥連合国軍最高司令官。

マッカサー元帥については、私のブログでも読書、映画、記念室などで、何度も名前が出てくる。それだけで私の理解したマッカーサー像を描いてみよう。

袖井林二郎マッカーサーの二千日」(中公文庫)を読了。「日本の戦後の方向に決定的な影響を与えたマッカーサーの個性の分析と、占領政策とその効果についての記述が勉強になった。以下、事実関係を中心に興味ある部分を解説する。 マッカーサー元帥が日本の占領政策の総責任者だったのは、65才から71歳の期間だった。第一次大戦時、マッカーサー少佐は陸軍省に新設された広報部担当となり、新聞校閲係を経験する。後のマスメディアを自在に操る技術をこの時に獲得する。38歳で准将、そしてウェストポイント士官学校の校長を経て、44歳の若さで史上最年少の少将に昇格、50歳では陸軍のトップである参謀総長に任命される。しかし、陸軍でのキャリアはそこが天井であり、フィリピンの軍事顧問となった、マッカーサーは、日米の開戦まじかに、新設の米極東陸軍司令官に任命される。その後連合国最高司令官となって日米の戦いにようやく勝利する。日本の厚木飛行場にコーンパイプをくわえて降り立つ。その時点でも日本の陸軍は、関東平野だけでも二十二個師団30万人が完全武装で残っていた。そこへ丸腰で降り立ったのだ。マッカーサーは、第一生命ビルに総司令部を置き、1年365日、土日も休むことなく仕事に全エネルギーを注いだ。マッカーサー天皇戦争責任を問う内外の声から護り、戦犯として起訴されることを防ぎ、そして天皇を通じて日本国民を支配した。それは将軍家の機能だった。マッカーサーは、二千日の間に、日本の国民や指導者を前に公開の演説や放送をまったくしていない。マッカーサーは日本占領の期間を通じて、優れた部下に原理的な命令を与え、あとはすべて任せるという方針をとって成功したのである。マッカーサーは陸軍の高官であった父親の見果てぬ夢を追いかけていて、「どうです、お父さん、私もやっているでしょう」と誇らしげに語りかけている姿を目撃されている。また、彼は子供の頃から激しいマザー・コンプレックスの人だった。そのエピソードは多い。1950年に起こった朝鮮半島での北朝鮮軍総攻撃の知らせをを受けて、70歳の彼は10年は若返ったという副官の報告がある。そして博打であった仁川上陸作戦は大成功をおさめ、ソウルを再び国連軍の支配下に戻した。大勝利をおさめる。しかし中国人民解放軍によって大敗北を喫し38度線の南に追いやられる。その後、押し戻し38度線に達する。この時、大統領の外交権を無視して共産軍司令官と会談する用意があるとの声明を発する。このためトルーマンマッカーサーを解任する。マッカーサーは解任後、わずか40日で日本を離れてしまう。「3年たつと、どんな軍事的占領もそれ自身の重みで崩れ始める」とよく語っていたそうだが、彼の統治期間は5年8か月に及んでいる。

 袖井林二郎「拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人の手紙」(岩波現代文庫)。1945年8月30日に厚木飛行場に降り立ったマッカーサーの日本占領は1950年4月16日までの5年8か月、二千日に及んでいる。その間、マッカーサーは日本統治を非常な使命感を持って「経済学者、政治学者、技師、産業経営者、教師、そして一種の神学者」として行いたいと願った。 この間、多くの日本国民は寛大な施政者であったマッカーサーに感謝の念を抱いて従っており、その熱狂ぶりは1951年5月15日の米上院軍事外交委員会においてドイツとの比較において「日本人はまだ生徒の時代で、まだ 12 歳の少年である」と述べてこの部分だけが伝えられ熱狂が一気に冷却するまで続いている。9月の上旬からこの最高権力者に届き始めた手紙は50万通、小学生から政治家まで、日本全国津々浦々から届きている。公開が念頭にないこの資料は第一級の歴史資料であり、著者の袖井はその一部と格闘し、日本人の本質に迫ろうとした。以下、一部を抜粋。「日本を米国の属国となし被下度御願申上候」「貴国と合併し貴国の命のままに動くことに於いてのみ日本は救われる」「日米の合邦」「なるべくなら植民地のして下さい」「スパイにして欲しい」「米日合併一体となりて救わるるか、さもなくば共産主義制度によりて復興するか、、」「家業を捨てて米軍に入りたい」「アメリカの手先に使用させて下さい」。強者への擦り寄り、弱者の恫喝、など、当時の日本人の心の動きが散りばめられており、興味深い。著名人の投書も多い。布施辰治、白瀬中尉の次女、中浜清、児玉誉士夫世耕弘一鳩山一郎、、、。久米正雄は手紙ではないが当時「「日本はアメリカの第49州となるほうが幸福」との論陣も張っていた。「北朝鮮軍が38度線を越えて南に進撃した知らせを聞いたとき、見る見るうちに10歳は若返った」という目撃者の証言もある。

2013年に映画「終戦のエンペラー」を観た。8月6日の原爆投下シーンから始まるこの映画は、8月30日にマッカーサー連合国最高司令官が厚木飛行場にパイプをくわえて丸腰で降り立つシーンから動き始める。マッカーサーの部下である日本文化の専門家ボナー・フェラーズ准将(49歳)はA級戦犯の逮捕を命じられる。連合国は戦犯として天皇の裁判を望むが、マッカーサー天皇逮捕は日本国民の激しい反乱を招き、その後に共産主義者が入り込むことを恐れていた。フェラーズは天皇を戦犯リストから除外する理由を日本の指導者たちに訊ねるが、証拠がなかなか得られない。「無実を示す証拠は皆無」という報告書を書きあげるが、深夜に元木戸内大臣が訪れる。ポツダム宣言の受諾を巡って御前会議で意見が割れる中、天皇自身が降伏を受諾することを決め、玉音放送に踏み切る準備をする。千人の陸軍兵士が皇居を襲撃した経緯を語る。だがそのことを証明する記録はすべて焼却され、証人の多くは自決してしまっていた。マッカーサーの公邸を天皇が訪問する。握手し、写真を撮った後、会談の冒頭で、天皇自身が次のような言葉を述べる。「戦争の責任は国民にはなく、私個人にあり、どのような罰をも受ける」。マッカーサーは感動する。このクライマックスシーンは今まで読んだ多くの書物で紹介されていたので知ってはいたが感動して涙が出た。マッカーサーの自伝でも自身が詳しく書いている。玉音放送が記録された録音盤を巡る攻防の話も本で読んだことがあるが、やはり本当だったのだ。明治維新西郷隆盛勝海舟が会談し、江戸が戦禍を免れるシーンを思い出した。天皇戦争責任を問わずに、日本の再建に力を貸して欲しいというマッカーサーの決断は、難しい状況の中でよくできたと思う。また、この映画ではニュージーランドで撮影されたという焦土と化した東京の惨状が胸を打った。

 小堀桂一郎(東大名誉教授)編の「東京裁判 日本の弁明」(講談社学術文庫・1995年発行)を読んだ。本書は「東京裁判却下未提出弁護側資料」抜粋という副題を持っている。東京裁判の法廷に提出すべく作成、準備していたが、検察官の異議乃至裁判長の裁量によって却下処分され拒否された証拠資料と法廷への提出を見合わせた資料の抜粋編である。この書の最後に、米国上院軍事外交合同員会に於けるマッカーサー証言(1951年5月3日)が掲載されている。マッカーサーは、太平洋戦争は日本が自衛のために起こした戦争であると述べている。 「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。、、実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れていました。しがたって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」。

米国議会での連合国軍最高司令官退任演説では、「私もいま、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老兵として」と述べて、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」として長く記憶された。 日本国民に圧倒的な尊敬の念を受けていたマッカーサーは、終身国賓のアイデアや、マッカーサー記念館の建設計画があったが、上院の軍事・外交合同委員会の証言で「日本人12歳論」を述べる。このことでそういう空気は急速に失われてしまう。その時の正確な言葉は以下のとおりだ。「科学・美術・宗教・文化などの発展からみて、アングロ・サクソンは45歳の壮年に達しているとすれば、ドイツ人もそれちほぼ同年輩である。しかし日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である」。

この発言だけで、「マッカーサー記念館」の建設計画がとん挫したのはいささか行き過ぎと感じてしまった。 2015年7月29日に、第一生命本館にある「マッカーサー記念室」を見学する機会があった。2日間特別に見学する機会があり、応募したら当選したのだ。見学者は年配が多い。1945年から5年7か月に及んだ連合国最高司令官・マッカーサー将軍が毎日通い様々の仕事をした部屋である。元々は第一生命社長室だった。部屋の真ん中に大きな引き出しの無い机があり、マッカーサーが使っていた椅子がある。マッカーサーは即断即決を旨としていたから資料を保管する引き出しのない机を使った。英国のチューダー王朝風のインテリアだ。そこにサミュエル・ウルマンの「青春の詩」が掲げられていた。「理想を放棄することにより人は老いる。信念を持てば若くなり、疑念を持てば老いる。自信を持てば若くなり、恐怖心を持てば老いる。希望を持てば若くなり、絶望を持てば老いる」。また、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」もいい。マッカーサーについては、この二つの言葉を覚えておこう。