インスタグラムの「後ろ姿探検隊」ーーー公園の子どもたち

写真共有アプリ・インスタグラムで「後ろ姿探検隊」というテーマで、2019年1月以来、写真を投稿し続けている。アイフォーンでの撮影ではテーマが決まっているので、自然に撮るべき対象が目につくようになった。昨年末で200本になっていたから、もうだいぶ溜まっているはずだ。公園での写真が多い。いずれ写真集になるかもしれない。

緊急事態宣言で、公園の風景も様変わりだ。子どもたちの姿が目立つようになって、撮影対象が多彩になってきた。今日の公園で「後ろ姿探検隊」のテーマで撮影した映像を載せる。 

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「名言との対話」4月10日。黛敏郎「日本のオーケストラが日本人の作品を演奏しなくてどうする」

黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年2月20日 - 1997年4月10日)は、日本作曲家

横浜一中の担任は、万葉集研究者家の犬養孝である。山田耕作作曲の校歌を敏郎のピアノで録音された。東京音楽学校では始まって以来の天才といわれた。師は橋本国彦、後任は高浜虚子の息子の池内友次。2年上の芥川也寸志、3年上の團伊久磨と親しくなった。在学中にジャズバンドでピアニストとして活躍。卒業後、21歳で映画「カルメン故郷に帰る」「帰郷」の音楽を担当し、毎日映画コンクール音楽賞を受賞。生涯で190本を超える映画音楽を担当している。

1951年、フランス政府給費留学生として渡欧。三島由紀夫と出会う。「学ぶものなし」として1年で帰国。1953年、芥川也寸志、團伊久磨と「3人の会」を結成する。以降、日本初の電子音楽の習作を発表。その延長に「涅槃交響曲」を「3人の会」で初演する。それを契機として、音源の源泉である東洋的、日本的な素材や歴史、伝統、思想へと歩み出していく。「曼荼羅交響曲」で、視覚化された仏教思想である曼荼羅を音楽化するなど仏教の世界にのめり込んでいく。ライフワークとして「古事記」の音楽化を考ており、それは「KOJIKI」に結実した。

現代音楽から古代まで、あらうゆるジャンルを横断し、かつさかのぼった作曲家である。「涅槃交響曲」などの管弦楽。「金閣寺」「KOJIKI]などのオペラ。「BUKGAKU]などのバレエ音楽。「黎明」などの吹奏楽・管楽合奏。室内楽・器楽。映画「天地創造」などのピアノ曲カンタータ「般若心経」「日蓮上人」などの声楽。「オリンピック・カンバノロジー」などのテープ音楽。にゃんちゃん」などの映画音楽。「スポーツ行進曲」などのテーマ音楽。「集英社社歌」などの校歌・団体歌。まさに、驚嘆の仕事ぶりだった。

YOUTUBEで黛の番組やオペラをみた。35歳から司会をつとめた「題名のない音楽会」では、ベートーベンから浪花節まで、あらゆるジャンルの音楽を紹介した。出光興産が一社スポンサーのこの番組は、常に新しい試みがあり、また黛のトークに魅せられてよくみたものだ。この番組は黛は死去するまで続けている。まさにライフワークであった。「題名のない音楽会」では「生きていた英霊に捧げる歌」や「スポーツ・ニュースのための音楽」また若き日の坂本龍一の姿もみることができた。また、ドイツ語での「KOJIKI」をみたのだが、現代と古代と現代を往復する映像だった。

「どんな素晴らしい音楽も余韻じょうじょうたる梵鐘の音の前には、全く色褪せた無価値なものとしてしか響かないとは一体どうしたことだろう」「茶室にいる人間と外にある自然の絶妙な調和の音に、日本の美の典型がある」いう言葉を吐くなど、現代音楽の旗手であった黛敏郎は、しだいに日本へ回帰していった。明治以降の日本人の芸術家は西洋かぶれの人たちだ。そのまま生涯を終える人も多いが、最後は「日本」に回帰する人々もいる。版画の池田万寿夫、絵画の川端実、詩の村野四郎、萩原朔太郎、アニメの高畑勲、、、などだ。「日本のオーケストラが日本人の作品を演奏しなくてどうする」と激励した音楽の黛敏郎もその系譜の芸術家、知識人だった。享年68。 

日本の音楽家を知るシリーズ 黛敏郎

日本の音楽家を知るシリーズ 黛敏郎