コロナ生活の間に本を読もう! #7日間ブックカバーチャレンジ2日目。 谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』(晶文社)。

#7日間ブックカバーチャレンジ2日目。

谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』(晶文社)。

在野の民俗学の第一人者である独学の人の著者が、自分で自分の道を切り拓いた民俗学の先輩の巨人たち--柳田国男南方熊楠折口信夫。吉田東伍。中村十作。笹森義助--の人生の足跡を描いた力作である。 

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NPO法人知的生産の技術研究会の仲間の伊藤松郎さんにバトンタッチ。

独学のすすめ―時代を超えた巨人たち

独学のすすめ―時代を超えた巨人たち

 

  谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』 - 久恒啓一のブログ「今日も生涯の一日なり」

以下、「独学」に関する記述のみをピックアップ。

・正統な学問にない分野の疑問を解くのが独学。すべてに疑問を持っていく。独学にはきりがない。たえず先へ先へと進むのが独学者の精神。無限に追求していく精神。自分が得た結論をもういっぺん疑ってみる。「思うて学ばざればすなわち危うし」は独学者が自足することへの戒めだ。在野の精神。独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者だ。生きた学問。

・学校教育は世襲の知識を受け取るところであり、国取りの知識ではない。独学のススメをできる教師こそ本当の教師である。知識は独学で学びとるときに初めて自分のものとなる。優れた学問を樹立したものはことごとく独学者の道を歩いた。

・独学者は非常に孤独だ。独学者は羅針盤を自分でつくらなくてはいけない。孤独だが、自分で切り拓いていくパイオニアとしての喜びがある。

・「自分一個の学」「私一個の学問」「自学」。独善と偏狭を戒めていれば正規教育を経てきた研究者の及ばない研究を生み出すことができる。自分で考える。考えて勉強する、調べる、そしてまた考える、この往復運動。

・与えられた既成の価値には目もくれず、新しい明日の世紀を開くために「自分で自分を作る」道を有ることする人びと。

・リテラリーマンとは大きな業績を残した独学者。

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「名言との対話」4月25日。東郷青児「こと女に関するとたちまち毅然たるところを失って、ただいたずらに己を見失ってしまうような者が、すなわち女難ではないか」

東郷 青児(とうごう せいじ、1897年明治30年)4月28日 - 1978年昭和53年)4月25日)は日本の洋画家

東郷青児未来派シュールレアリスムなどを経て、年齢を重ねるごとに画風を変えていった。戦後は主戦場の二科会を再建し、実質的な主導権を握り、東郷二科会と呼ばれていた。ヌードモデルを連れて街を練り歩く二科会前夜祭で話題を呼ぶ。漫画部、商業美術部、写真部を新設している。そして世界の規模の美術交流をはかった。やり手だったのだ。東郷の作品の特徴は、1・大衆性、2・優美・華麗な感覚と詩情、3・職人的完璧さと日本的装飾性、といわれている。

 1976年、新宿に安田火災海上本社ビル(現在の損保ジャパン日本興亜ビル)が完成している。新宿の高層ビルの先駈けであり、またトビムシの形状も話題になった。そのビルの安田火災美術財団が運営する東郷青児美術館が開設された。東郷は当時79歳で、一般公開の当日には来館者を迎えている。同日には帝国ホテルで勲二等旭日重光章の叙勲祝賀会が開催された。

東郷の生涯を貫くモチーフは「女性」であった。「東郷様式」は、誰にでも判る大衆性、モダーンでロマンチックで優美、華麗な感覚と詩情、職人的な完璧さと装飾性という3つの特徴を持っていた。

美術館で買った、人間の記録89『東郷青児』を読了。最晩年の写真は功なり名を遂げたハンサムでかつおしゃれな人物で写っている。それを眺めると女性にもてただろうなと思わせる風貌だ。若い頃の写真をみると整った美男子だ。年配になっても素敵な風貌だ。『人間の記録  東郷青児』は、ほとんどが女性遍歴緒の話題だ。小見出しをあげてみると、「女たらし」「接吻」「ものにする十四則」「ざんげ」「逃げる女」「初恋の女」「ニースの金髪」、、、。

確かにこの本には数々の女性遍歴が記されている。また、若き日に山田耕筰の助力や有島生馬のおかげでデビューしたり、妻の父が虎の子のように持っていた寡作を売ってパリ留学費用を出してもらったり、留学中に命を助けた女性の配偶者の援助で貧乏生活に終わりをつげたり、何か運を持っているという印象だ。この自伝によると、「女難の相」があると言われた東郷の波瀾万丈の女性遍歴とそこから引き出された教訓はなかなか興味深い。

人生については、「難破に難破を重ねてここまで来ると」「宇野千代と妙な仲になってしまい、彼女と同棲2年」「どうやらこうやら、絵でめしが食えるようになったのは45歳を過ぎてからのような気がする」と述べている。

女性遍歴恩の相手の一人が作家の宇野千代だ。『生きていく私』という自伝には、東郷のことが書いてある。「東郷青児という男が、巴里帰りの有名な画家で、つい最近、情死事件を起こしたことは、、、誰知らぬものはなかった。」「私と青児とは或る街角の喫茶店の前で出会い、そのまま青児の家へ行って、一緒に寝たのであった。、、、そして私は、翌日も翌々日も、その家から帰らないで、そのまま、青児の家で一緒に暮らしたのであった、、」「私はそれまでの、着物一点張りの習慣をがらりとやめて、巴里直輸入ばりの洋服ばかりを着るようになった」。宇野千代は、東郷には日本のマナーを教えた。そして「一種、かげのある、あの顔」と後に述べている。

2017年に開催された新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館の「東郷青児展」生誕120年をみた。東郷青児は1978年4月に熊本での二科展の巡回中に急性心不全で死去する。享年80。この年、2月にはアマゾンの奥地を探検しているから、まだ元気だったのだろう。そういう記述の後に、4月24日付けで文化功労者として顕彰されている。

ここで以前読んだ『佐藤栄作日記』第四巻の記述を思い出した。1970-1971年の日記である。73-74歳の東郷青児がやってきて、文化勲章は無理でも、文化功労者は何とかならんか、と直接総理に言った。その日の日記には本人が言ってくるのはよっぽどのことだ、という意味の記述があった。文化功労者は存命中の人物の顕彰であるから、亡くなる一日前の日付となったのであろう。佐藤総理の影響があったのだろうか。

自身の名前を冠した素晴らしい美術館が時代を超えて長い間、生き延びたのは凄いことだと思う。30代の時代に東郷の作品は安田火災の前身である東京火災のパンフレットやカレンダーに1933年から作品が採用されている。7年に及ぶフランス時代にギャラリーの装飾美術部門で働いたことがあり、それが帰国後の壁画、緞帳、商業デザインなどジャンルを問わない旺盛な活動の源泉になった。その活動が自身の名前を冠した美術館に結実したのだから、人生はわからない。そしてこの美術館は、現在は、企業の盛衰に伴う合併の嵐の中で、SOMPO美術館となって冠の東郷青児はとれてしまった。 

東郷青児―他言無用 (人間の記録 (89))

東郷青児―他言無用 (人間の記録 (89))

  • 作者:東郷 青児
  • 発売日: 1999/02/25
  • メディア: 単行本