文芸春秋6月号ー総力特集「緊急事態を超えて」。朝、SDGsフォーラム。昼、小田実、夜、オンライン授業。

文芸春秋6月号。

 総力特集「緊急事態を超えて」は、新型ウイルスの戦い202ページで読み応えがある。

ファクターX。第二波。集団免疫。戦時国債。減税。小池。IT戦記。米中コロナ戦争。ペスト。モーニングショー。心と身体。医療現場。自粛疲れ。

 今日の収穫。

「これからが、これまでを決める」(浄土真宗の寺)

「これまでに起きた楽しいこと、うれしいこと嫌なこと、悲しいこと、辛いこと、それらはすべてあたなを造ったものであり、あなたの宝物なのです」(京都・往生極楽院)

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・朝。ヨガ2本。日経新聞の「SDGs」フォーラムの寺島さんの講演をQRコードで開いて聞いた。講演も集合して聞くのではなく、スマホで聴く時代だ。

・夜。ニュースピックスでオンライン授業についての論客たちの座談を聴いた。

・昼。1時間ほどウオーキングしながら、アイフォンで「声で綴る昭和人物史の「小田実」編の1回目、2回目を聴く。以下、キーワード。民主主義と平和主義の結合が戦後日本、日本国憲法。丸腰こそが自由。難死の思想、不条理な死、戦争と災難から逃れる。、、、。

以下、思い出した私と小田実とのこと。

 世界を貧乏旅行して好奇心の赴くまま見て歩いた「何でも見てやろう」(1961年。29歳の時の出版。河出書房新社)という本が大ベストセラーになって、大学生のときに興奮して読んだ記憶がある。この本は若者の世界への目を開いた歴史的な本だった。

小田実は1960年代後半から1970年代前半にかけて活発に活動していた「ベ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」)を創るなど政治活動に多くの影響を与えた。就職後、私は20代の後半にロンドンで仕事をしていたが、そのとき、小田実が近くを通った。事務所にいると、中東地区を担当する偉い人(この人は豪放な人として有名だった)が「オメエ、小田まことって知っているか?」と聞くので、「それは有名な人ですよ」と答えたら、「そうか。オレは小田実(小田みのる)なら知っているが、小田マコトなんてしらないと答えたが違っていたかなあ」といって笑ったので、私もおかしくなったことを思い出す。

その後、日本に帰り30歳頃から「知的生産の技術」研究会(知研)に参加した。このとき「激論!ニッポンの教育」(講談社)という本の編集の手伝いで旧・吉川英治邸を訪れたことがある。私がその場所に入ると、誰かがソファに寝そべっていた。起き上がるそぶりもないその人に挨拶をするとそれは著名な学者の小室直樹だった。その後、朝日新聞の原田先生と毎日新聞の黒羽先生がみえ、文部次官経験者、そして小田実が現れた。いったいどんな座談会になるのかと思っていたのだが、始まってみると当時の教育の主流である次官経験者と舌鋒鋭くそれを批判する小田実の一騎打ちの様相を帯びてきた。小田実は体が大きく骨太な骨格を持った偉丈夫だが、相手の理論を真上から粉砕しようとする迫力があった。後で講談社の編集者に感想を伝えると、「小室直樹も毒気が強いが、小田実は毒の強さが上だからね」という返事だった。

大阪での知研の講演をお願いした。その前に時間があって二人で喫茶店でしゃべったとき、考えがまとまってきた「図解」の理論を説明したら「それは大変なこっちゃなあ」と感心してもらったことを思い出す。セミナーの司会を私がやって、会員の車で小田さんを送っていった光景を思い出す。風圧は強いが、気さくな、そして大きな人だった。

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「名言との対話」5月12日。秋田雨雀「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたい」

秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年明治16年)1月30日 - 1962年昭和37年)5月12日)は、日本劇作家詩人童話作家小説家社会運動家である。

私は2015年に青森で開催された東北地区高校進路指導協議会研究大会に招かれ、「キャリア教育」について講演したことがある。その後、黒石の秋田雨雀記念館を訪問した。

少年時代に病弱であったため自分を卑下する気持ちで雨雀と呼んでいたが、それが後のペンネームになった。小学校の同級生に生涯の友人でありライバルであった口語歌人の鳴海要吉がいる。雨雀は、早稲田に進学する。1907年に小説「同性の愛」と言う名前の処女作を発表し注目を浴びる。その後、戯曲、小説、詩、童話、随筆、評論等を手がけた。また、新劇運動やエスペラント運動などにものめり込んだ。
戦争賛美者を批判し、1927年にはソ連から国賓として招かれている。その後日ソ文化協会や極東平和の会等の設立にも努力をしている。
代表作の「みつばちの子の巣立つ朝」は作詞は秋田雨雀であり作曲は山田耕作である。
当時の友人達との手紙のやり取りを見ることができた。高村光太郎山田五十鈴、など著名な人たちとの交流を伺い知ることができた。

国際語エスペラントについての掲示があった。エスペラントとは希望の人という意味である。19世紀末にユダヤ人のラサロ・ザメンホフ方という人物によって考案された人造語だ。彼は人種の入りくんだリトアニアで生まれている。世界を1つの言葉で結びたいという希望を持って作った。1906年には日本エスペラント協会が発足している。
雨雀は「平和の戦士として全世界の人々の中に入り真の民主主義確立と理想実現のため行動すべきだ」という言葉も述べている。

著作類が並んでいた。秋田雨雀日記。50年生活年譜。あかつきへの旅50年自伝記録。句歌集の不死鳥、、、。「みつばちの 巣ばこに われは耳あてて はるかにもきく 春のおとずれ」「ひとさしを わが手のひらに  おしあてて 文字を教えし 父のなつかし」「手を拡げて 小さな実をこぼす 初霰」

1932年の生誕50年祝賀会では「日本社会における1つの良心的存在として生きていきたい」と述べている。65歳では、舞台芸術学院の院長に就任。68歳になった時、日本児童文学者協会の二代目の会長に推されている。初代は、小川未明であった。1960年、77歳では黒石市の名誉市民に選ばれている。

私が訪ねた当時は、材料は豊富だったが、なにか雑然とした展示だったという記憶がある。 2019年に黒石・秋田雨雀記念館のリニュアルのニュースが耳に入った。雨雀という存在は、黒石市青森県の貴重な財産となったのだろう。

雨雀の活動をながめると、俳句、短歌、小説、詩、戯曲、随筆、評論、童謡、演劇、平和運動エスペラント運動、、、と雨雀はあらゆることに興味があり、どの分野にも才能があり、そして並外れたエネルギーの持ち主であったという感を深くする。その基軸は「良心的存在として生きる」だったとすれば、才能にまかせた取り散らかした人生ではなく、終始一貫した生涯であったといえるだろう。