読書三昧

読書三昧。「名言との対話」用の資料本を読み進めている。ここ数日で読んだ本。

井上研一郎「山口蓬春ー新日本画への展開」(北海道新聞社)。「羽仁もとこ選集 われら友あり」(婦人之友社)。吉田五十八「饒舌抄」(中公文庫)。木本美紀「蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年」(小学館)。

そろそろ6月分の人選と本の注文もしよう。

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ユーチューブ::ヨガ1本。呼吸法1本。

ウオーキング1時間(唐木田往復)。アイフォンでNHKラジオ聞き逃し配信の「古典講読」の「『方丈記』と鴨長明の人生」1・2を聴く。

朝倉響子朝倉文夫の次女)の少女像の彫刻は、冬は誰かがマフラーを首に巻いていた。今日はマスクだった。

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「名言との対話」5月13日。ジャンボ鶴田全日本プロレスに就職します」

ジャンボ鶴田(ジャンボつるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本プロレスラースポーツ科学研究者。

中央大学法学部政治学科入学。全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇し、1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。卒業後、鶴田はジャイアント馬場全日本プロレスに入る。記者会見で「全日本プロレスに入社します」と宣言し、話題になった。

戦績は華々しく、プロレスリング三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)である。 派手さはないが、ジャンボ鶴田の名前は、馬場や猪木の次によく目にした。

妻の保子さんが書いた『つぅさん、またね。ジャンボ鶴田を支えた家族の記録』を読んだ。保子さんはJAL大阪空港支店スタッフから、客室乗務員になった人だ。「ジャンボ鶴田」というリング名は公募で選ばれた。ちょうど日本航空がジャンボジェット機を就航させた時期であったことから選ばれた。

2014年に、米国プロレス殿堂入りを果たした。日本人では力道山、馬場、猪木に次ぐ4人目の快挙であることからわかるようにレスラーとしての実績は申し分ない。

鶴田の引き際の哲学は、「人にはそれぞれ持ち分というものがある。その持ち分の仕事が終わったら、身を引いたほうがいい。それでまた新しい世界に行ったら、違う面白さがあるんだ」「辞めるときはきはキッパリ辞めたい。引き際が醜かったら、自分のやってきたことが全部ダメになる」であった。

1994年筑波大学大学院体育研究科でコーチ学を専攻した。修士論文は「現代レスリングが直面する課題ージャンボ鶴田の理論と実際」。その後、慶応義塾大学、桐蔭横浜大学、母校・中央大学の講師をつとめている。鶴田の目標は、スポーツジムの経営、そして一流の学生を育てることだった。

1999年に引退。研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任した。「人生はチャレンジだ」という本人の言葉どおりのチャレンジャーだった。

 B型肝炎を発症し、フィリピンでの臓器移植手術中の大量出血で死去。享年49。遺骨を埋葬している故郷山梨県の慶徳寺には「人生はチャレンジだ!!」と書かれた墓碑が建っている。遺族は遺志にしたがって200年4月に「ジャンボ鶴田基金」をオーストラリアで設立し。臓器移植希望者への支援を行っている。

ジャンボ鶴田の生涯を眺めると、人生設計意識があり、人生計画を持っていた人だったということを強く感じる。プロレスという格闘技の業界では珍しい人である。仕事で世界一になる。大学院で学ぶ。大学で教える。その後の、人生計画もあった。朝型の生活、「人間は人間に会わないとダメになる」という考え方、年齢に応じた生活の充実という堅実さ、浪費せずに投資するという哲学、、。私と同世代の鶴田友美という人にもっと長い寿命があったら、どのような人生を送っただろうかと想像する。