「週刊文春」5月28日号

週刊文春5月28日号。 

  •  「黒川検事長スクープ」:「法が終わるところ、暴政が始まる」。情報源は産経新聞社だったのはきな臭い。壊れた官僚機構の再建は容易ではないと思う。
  • 川柳「ネクタイを外し世間が広くなる」(大阪府 森純也)。
  • 東京女子医大「自宅学習では録画された講義を視聴、、同時双方向型の遠隔授業でなければ、文科省に単位として認められない可能性がある、、、そのようなシステムは使えず、一刻も早く再開しないと、、」。(対応できていない大学も)
  • 所功歴史学者)の「家の履歴書」。「人間に関心があり、誰がどんな家で生まれ育ち、どこへ移り住んだか、とても興味があります」。

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大学

・授業の資料整理

・総研の松本先生

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 「名言との対話」5月21日。田中館愛橘「自分が偉い人になったら、他の人を偉い人にすると思ってやらなきゃだめですよ」

田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、1856年10月16日(安政3年9月18日) -1952年5月21日昭和27年)は、日本の地球物理学者。

東大物理学科を卒業後英国、ドイツに留学。東大教授を21年間つとめる。地球物理学では、地磁気地震を研究し日本の地球物理学確立に尽力し、木村栄らを指導して水沢緯度観測所をつくった。草創期の航空工学でも活躍し、国産ジェット機YS11の開発の一翼を担った。帝国学士院会員、貴族院議員として震災予防会、東大航空研究所等の設立に貢献した。またメートル法普及にも尽力。「ローマ字運動のためにあり金全部叩いちゃった」と孫娘からいわれるほどローマ字の普及にも努めた。1944年に地球物理学と航空学への貢献で岩手県人としてははじめて文化勲章を受賞。

田中舘愛橘の曾孫である松浦光『ジュニアノンフィクション 田中舘愛橘物語』(銀の鈴社)を読んだ。子ども向けの本はエピソードが満載で、ありがたい。

同郷の新渡戸稲造とはほぼ同じ時期に上京し東京英語学校で友人になっている。二人ともズーズー弁を捨てなかった。水魚の交わりであった。新渡戸稲造キュリー夫人と田中舘愛橘は3人とも国際連盟の知的協力委員会の委員となっている。1910年にはノーベル賞の推薦委員だった。その国際人・田中舘愛橘は生涯ズーズー弁で通しているのも面白い。

田中館愛橘は、様々の分野で仕事をした人であるが、一方でグローバルに活躍した。生涯において国際会議の出席数は68回に及んでいる。国際会議では、役職は委員長、議長、会長、日本代表、東洋代表であった。ヨーロッパの学者からは「地球には2つの衛星がある。1つは月だが、第二の衛星は田中館だ。彼は1年に1度地球を回ってやってくる」と言われたというエピソードがある。

膨大な数の和歌を詠んだ。その和歌はローマ字が多かった。「ひんがしの浦風よぎて福岡の里にしめゆう折爪の岳」「神路山霞の奥を踏み分けて問はばや木々の花の盛りを」。日本語をローマ字にして世界の人が日本語を読めるようにしようというローマ字運動の熱心な推進者だった。昭和天皇へのご進講では「田中館、きょうはローマ字の話はしないのか」と言われている。

60歳になって大学在職25年の祝賀会の席上で「辞職願をただいま提出してきました」と述べ参加者を驚かしている。この行為が大学の定年制の礎となった。

1999年に郷里の二戸市二戸市シビックセンターに田中舘愛橘記念体育館がオープンした。世界的デザイナー福田繁雄デザイン館も併設されている。私はここを訪問したことがある。ここには1万点の資料が寄贈されていた。

地震の少ない西洋で発達した文明を、地震が多発する日本に移入するのは土台無理があるということさ」と田中館博士が語っているのは見逃せない。原発問題についても示唆に富む予言だと思う。

梅棹忠夫先生は晩年に役職を整理したが、日本ローマ字会はだけは残すと話したのを聞いたことがある。社団法人日本ローマ字会での先生の講演の引き出し役を仰せつかったことがある。1885年に外山正一らが羅馬字会を組織したことが始まりで創立会では会員数は6876人だった。その後、1921年に日本式ローマ字の実行団体として日本ローマ字会が設立され、田中館愛橘博士が会長となった。1926年社団法人日本ローマ字会となり、1993年に梅棹忠夫先生が会長に就任している。当時は梅棹先生は名誉会長だった。

1950年文化功労者となり、1952年95歳で東京経堂の自宅で永眠した。勲一等旭日大綬章を授与された。長寿であった田中館は、「長生きの法をひとくちで言えば貧乏をしていることだ」と述べている。そして雑誌『ローマ字の世界』に書いた「わが健康法」で健康法を明らかにしている。「眠ること、便通をよくすること、下着の着替え、入浴」の4つであった。

2012年の没後60年には東京上野の科学博物館で「日本物理学の祖 田中舘愛橘」という企画展が行われている。日本物理学の祖といわれた田中館愛橘には、弟子に偉い人がたくさん出ている。地球物理学の寺田寅彦、本多光太郎。Z項の木村栄、原子モデルの長岡半太郎ノーベル物理学賞湯川秀樹は孫弟子にあたる。

1951年の「子どもたちへ」という授業の録音の記録がある。「これからの仕事でも何でも一般の人がわからなくちゃいけない」とローマ字をすすめている。また「全体の人皆が偉い人にならなきゃだけですよ」、そして「自分が偉い人になったら、他の人を偉い人にすると思ってやらなきゃだめですよ」と諭している。田中館愛橘は本当に「偉い人」だった。

松浦明『田中館愛橘ものがたり』(銀の鈴社)